2018年11月13日火曜日

パレスチナとイギリスの忘れられた記憶


イギリスによるパレスチナの委任統治は第一次世界大戦終結をきっかけに始まり1948年まで続いた。


The Conversation
James Rodgers
November 12, 2018

第一次世界大戦終結が西ヨーロッパが平和になったということしか知らない人たちにとっては、その100周年記念式典は政治的な違いを平和的に解決することができない時に起こる極端な結果について学ぶ良い機会になるだろう。そして、この紛争の痛みと犠牲を体験した何百万の人々は、世界が停戦から100周年の記念日を迎えた今は既に過去の人たちになっている。

しかし、今年は別な節目の年でもある。1948年にイギリスによるパレスチナの委任統治が終了した。この今日まで続く紛争に於ける重要な瞬間はほとんど無視されている。そうであってはならない。この件でイギリスが中心的な役割りを果たしたことはイギリスで忘れられても中東では忘れられることはない。

第一次世界大戦の結果の1つとして、オスマン・トルコ帝国が崩壊した。1918年11月に停戦が実現し、その12月エドマンド・アレンビー将軍(ニックネームは「The Bull」)が率いる隊はエルサレムを占領する。戦争終結後、国際連盟はパレスチナに対するイギリスによる「委任統治」(実質的な移譲)を認める。この統治が1948年まで続いた。そして、イギリスは撤退し、この地はユダヤ人とアラブ人の住民たちが争う場所として残されたのだった。1948年の5月ユダヤ人の軍隊が勝利し、イスラエル建国が宣言された。

この戦闘はイスラエル人にとっては独立戦争として記憶され、パレスチナ人にとっては「アル・ナクバ」(大災厄)として記憶されている。1999年にナオミ・シェファードが書いた本「砂を耕す:イギリスのパレスチナ支配(Ploghing Sand: British Rule in Palestine)」によると、「パレスチナで従軍した多くのイギリス人にこの委任統治の目的が完全に明らかにされることは無く」撤退し、この間のことはイギリス人の記憶には殆ど残っていない。

ある意味でこの統治へのイギリスの関与の規模は驚くべきものである。国立軍事博物館のウェブサイトによると、1947年には10万のイギリス兵がパレスチナに展開している。2017年のイギリス軍の現役兵士の数は7万8千であることを考えればその関与の規模が伺える。

また別な意味では中途半端な関与だった。委任統治に従事した当局が直面した課題は容易ならぬもので、彼らは今日まで続く紛争で分裂したままのこの地を去ることになる。イギリスは第一次世界大戦の間国際的にユダヤ人を支持する方法を模索しており、後の歴史家エリック・ホブズボームの言葉によれば「無謀かつ曖昧な形で、パレスチナに『ユダヤ人の国家』を設立することを約束した」のだった。

知られているようにバルフォア宣言は1917年に発されている。2017年にその100周年を迎えたことは、今年第一次世界大戦終結の100周年が広く話題になっているのと比べると全く目立たないものだった。委任統治の終結と同じようにバルフォア宣言もイギリス人にとって殆ど忘れたい記念日になっている。だが、パレスチナの地では忘れることはできない。


ブラスバンドの演奏も無く


私がパレスチナの第2次インティファーダの時に記者としてガザに到着した時、すぐに難民キャンプの老人が歓迎してくれた。そして、その紳士にバルフォア宣言のことを叱責されたのだった。それは2002年のことだったが、彼の石造りの家はイスラエル軍に破壊されたばかりで、彼はその1917年の文書に端を発する惨めな運命を辿っていた。

イギリスの元駐イスラエル大使であるシェラード・クーパー=コールズは彼の回想録で、イスラエルのアリエル・シャロン首相とイギリスのの中東特使レヴィ卿との会談で見たことを記している。この時、シャロン首相は「イギリスの統治は終わってるんだ」と叫びながら巨大な拳を机に叩きつけて、この非外交的な会談は終わったという。

今では想像し難いことだが、1948年に委任統治が終了したことはイギリスのメディアでも大きく扱われた。私は自分で著書を書くための調査で、イスラエルとパレスチナの紛争について書かれた当時の新聞記事を探った。1948年5月14日、イギリスの委任統治が終わった日の朝、デイリー・ミラー紙は愛国的な誇りを喚起しようと最善を尽くしている。

植民地省はイギリスによる統治が開始された時パレスチナは原始的で未発達な地域であったと述べている。75万の住民たちは病気と貧しさに悩まされていた。しかし、新たな農業の手法が導入され、医療サービスの提供、道路と鉄道の整備、水の供給が改善され、マラリアは消滅した。

翌日のデイリー・メイル紙は、エルサレムの英国本部に掲げられていて日に当たってくたびれたユニオンジャックがロンドンに持って帰ってこられたという感動的な絵を掲載していた。

この話題を現代の新聞から探そうとしても、欧州における第一次世界大戦終結に割り当てられたものと比べるとほんの僅かなものしか見ることができない。公式な記念式典が存在しないことは無知と恥の両方を表している。

「彼らがパレスチナから戻ってきた時はブラスバンドの演奏もありませんでした。彼らはまるで何か汚いものに巻き込まれていたかのように扱われていたのです」とパレスチナ退役軍人協会の主催者が最近タイムズ紙に語っている。

特に戦没者を弔うポピーを身につけた人が目立つこの時期に、意味のある記念日を無視することは軍事的、外交的な失敗から学ぶことを拒否することになるのではないだろうか。

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