2018年11月21日水曜日

ジュリアン・アサンジにその価値はあるのか


もし機密資料を公開したことでアメリカ政府がウィキリークスのジュリアン・アサンジを告訴できるなら、あらゆるメディアが危険に晒されることになる。


The Atlantic
Bradley P. Moss
Nov 19 2018

先週アメリカ政府は無関係の裁判文書の記述から物議を醸すウィキリークスの主任編集者ジュリアン・アサンジを訴追していることを発覚させてしまった。この訴訟の性質は訴えた時期と同様に明らかになっていないが、このことで政府による法的手段の有り得べき可能性と憲法修正第一条の保護への潜在的影響について専門家たちは考えさせられることになった。だが、各々がアサンジについてどういう印象を持っているかに関わらず、この訴訟の行く末はアメリカ合衆国の自由で独立した報道基盤の中心に打撃を与える可能性がある。彼を嫌っている人であっても、ある報道機関を刑事責任を追わせる目的で他の報道機関から区別することには反対しなければならない。

アサンジが最初に有名になったのは2010年、広範な機密文書がチェルシー・マニングから彼の手に渡り公開された時だった。その後彼はロンドンのエクアドル大使館に逃げ込み、そこに閉じこもって6年になる。外の世界から物理的に閉ざされたことがアサンジとウィキリークスの活動を停滞させることはなく、2016年のアメリカ大統領選挙ではヒラリー・クリントンの選挙対策責任者を努めたジョン・ポデスタと民主党全国委員会から盗み出された膨大なメールを公開して選挙戦の中で重要な役割りを果たした。このメールが最初に取得された方法、それがその後アサンジの手に渡ったこと、そしてこれがウィキリークスから選挙戦の中の絶妙なタイミングで公開されたことは、トランプ陣営のロシア疑惑を調査するロバート・ミュラー特別検察官の関心の対象になっている。

実際のところ、私たちはアサンジに対する訴追の内容は何も知らされておらず、政府が何を根拠に彼に刑事責任を負わせようとしているのかは推測に頼らざるを得ない。漏洩した機密文書を公開することにスパイ活動法違反があったのか?彼らの情報を取得するためのハッキング行為がコンピューター犯罪取締法に抵触したのか?2016年の選挙戦を妨害することによってアメリカを欺こうとしたという共謀に対する訴追なのか?まだ誰も本当のところはわかっていない。

今回の訴追が理論的なジャーナリズム的行動から逸脱した行為に対するものだった場合には、熱狂的なアサンジのファン以外は、私も含めて彼の身柄引き渡し、起訴、(有罪)判決、を支持することになるだろう。ジャーナリストであることは、電子メールアカウントやプライベートなシステムをハッキングするような非ジャーナリズム的行動に対する刑事責任を免れることにはならない。この種の不正行為は調査ジャーナリズムにも必要なものではない。実際、伝統的なメディアのジャーナリストたちは、憲法修正第一条の限界に抵触することを避けるために相当の法律的な訓練を受けている。

それでは、マニングによって漏洩された文書の公開や、より最近のCIAの機密文書Vault 7の公開についてはどうだろうか?オバマ政権は単に機密文書を公開したことだけでアサンジを告訴することには議論の余地があり法的な危険性を孕んでいると結論づけ、慣習化された政策を守っていた。こうした告訴が通ることになると、将来的に当局が既存のメディアに対して取締りを濫用する土台を提供してしまう可能性を考慮していた。

しかし、トランプ政権が事実に現状の基づく分析を変更するような証拠を明らかにする場合は、オバマ政権が懸念した滑りやすい坂を下るような危険を冒さない形で告訴することになるのかもしれない。特に2016年の選挙戦中の文書開示の仮定で、アサンジが外国の政府から財政的または非財政的な支援を受けたという証拠はあるだろうか?特別検察官によって多数が訴追されているロシア疑惑の中で、アサンジは善意の愚か者ではなくアメリカを欺く陰謀の悪意の共謀者だったという十分な証拠はあるだろうか?もしそうなら何も言うことはない。

しかし、これらのことが真実ではなく告訴が単に機密文書の公開によるものだった場合には、私はこの告訴について断固として反対の意を唱えたい。私は個人的にアサンジに対して良い感情を持っていない。私は彼を西側的民主主義の諜報機関に対して個人的な恨みを持つ利己主義のナルシストだと考えている。ある種の状況下なら、私はアサンジが残りの人生を牢獄で過ごすのを見ても同情することはないだろう。

だが、私は自分の希望が叶うとしても、それを他の自由と引き換えにしたいとは思わない。憲法修正第一条と報道の自由はアサンジを罰することよりも重要なことだ。メディアは常に漏洩した情報や資料を公開している。市民が殆ど知ることのない舞台裏で国家安全保障に関わることであっても、伝えることが報道機関として自分たちの政府に対する責任を果たす方法の1つであり、それはどの政党が権力を握っていたとしても変わらない。ニクソン政権が公開を停止させようと圧力をかける中で、ペンタゴン・ペーパーが公開され、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストが法的措置を成功させたことは、アメリカの報道の歴史の中で最も有名な瞬間の1つになっている。

アサンジが漏洩した機密文書を公開しただけのことで告訴されるならば、全てのメディアが全く同じことで告訴されるリスクを負うことになる。政府と裁判所を巻き込んで報道機関としての資質を法的に定義すること無しに、ニューヨーク・タイムズやジ・アトランティックのような伝統的なメディアとウィキリークスのような存在とを区別する方法は存在しないはずだ。新聞やテレビネットワークが伝統的なメディアだというなら、フリーランスで仕事をする合法的なブロガーは?オンライン専門の媒体は?何だったら憲法修正第一条の保護を受ける価値があるというのだろう?これは政府が刑事訴訟の流れで決定して良いものではない。

21世紀のジャーナリズムは技術の進歩により形態が多様化している。市民の権利を重視するリベラル派も小さな政府を支持する保守主義者も政府がジャーナリズムを定義することを擁護するべきではない。シェイクスピアの「リア王」のセリフを借りれば「そう考えると気も狂いそう(That way madness lies.)」である。

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