2018年4月5日木曜日

ヒジャブをめぐるフランスの論争


なぜこの一枚の布切れがフランスでは憎悪を呼び理性を欠いた反応を引き起こすのか?


Al Jazeera
Rokhaya Diallo
4/4/2018

2月4日、フランスではテレビから流れる天使のような歌声が視聴者を釘付けにしていた。人気のタレントショー「The Voice」に出場した彼女はレオナルド・コーエンの名曲ハレルヤを歌い、その魅力的なパフォーマンスで番組の4人の審査員は全員合格のボタンを押した。この若い歌手、メネル・イブティッセムは一躍人気者になったのだった。

しかしメネルはただ普通にこの番組で成功したというだけでは済まなかった、映し出された彼女はターバンスタイルのヘッドスカーフを身に着けていた。そして、彼女はハレルヤの2番をアラビア語で歌ってみせたのだった。

この一連の出来事は、見ただけでそれとわかるイスラム教徒の女性が主流メディアの人気番組に出演していることを快く思っていない視聴者を騒がせるのに十分なことだった。もちろん視聴者の中には出演者の宗教は全く気にせず、彼女の声だけに関心を寄せていた人たちもいる。しかし、そうでない人々はヒジャブを身に着けてテレビ番組に現れたメネルの「大胆さ」に震え上がり、彼女を敵対視する運動を始めたのだった。

彼らは彼女のソーシャルメディアアカウントの分析を開始し、彼女がFacebookで2年前フランスで起きたテロ事件について、陰謀論に支持を示していることを発見したのだった。確かに彼女はそうしたポストに真剣に興味を持っていたようだが、それを書いた当時彼女はまだ20歳だったことに関心を持った人はいなかった。そして、他のフランス人の20歳が個人的なソーシャルメディアに定期的にどんな投稿をしているのかに関心を持った人はいなかった。

人々はこの番組から彼女を追放することを求め始めた。彼女に対する運動は雪ダルマ式に全国的な魔女狩りへと拡大し、結局この若き歌手は番組から離れる決断を発表させられることになった。

しかし2012年に始まった「The Voice」に参加した歴代の出演者たちについて私たちは何を知っているのだろう?何も知らないのだ。私たちはメネルに対してしたように他の出演者たちのソーシャルメディアを漁ってみたりしただろうか?もちろんそんなことはしていない。なぜならフランスでは歌手が成功して有名になる以前にあらゆる意味で完璧な生活をしていることは全く期待されていないからだ。フランスの芸術家には若かりし頃の過ちは許容されている。

だがそれはヒジャブを身に着けたイスラム教徒の女性でない場合の話だ。

私たちはフランスのテレビの主要番組でヒジャブの女性を見ることに慣れていない。彼らの出演は今だに動揺と不安を引き起こすのだ。

ヒジャブ(ヒジャブとは自身が宗教の一部であると感じている多くのイスラム教徒の女性が着用するヘッドスカーフのこと)に対する疑問はフランスの公開講演会ではいたるところで語られているが、ヒジャブを身に着けた女性が公の場で自身の意見を表明する機会を与えられることは極めて稀なことである。メネルの「The Voice」からの追放はヒジャブに強迫観念を持ったこの国がヒジャブを身につけることを選択した女性の声(the voice)を聞く準備がまだできていないことを改めて浮き彫りにした。

なぜフランスではこの1枚の布切れがここまで憎悪を呼び理性を欠いた反応を呼び起こすのだろう?なぜ私たちはヒジャブの女性をフランス社会の一員として受け入れることができないのだろう?

フランスのヒジャブ論争は1989年、パリの郊外クレイユで3人のムスリムの女学生が授業中にヘッドスカーフを外すことを拒否して処分を受けたことで始まった。その一ヶ月後、国の最高行政機関である国務院は少女たちのヘッドスカーフはフランスの公立学校の「ライシテ」(世俗主義)に適合していると判断した。しかし論争はそこで終わらなかった。その年の終わりに、教育大臣のリオネル・ジョスパンは教室でヒジャブを受け入れるか拒否するか判断することに責任を持つのは国家ではなく教育者たちであると宣言する声明を発した。

それから15年後、ヒジャブはフランスの学校(と一般の公共生活)に受け入れられるのか否か再検討が行われ、2004年にフランス議会は着用して授業に出席することを禁止する法律を成立させた。2010年になってフランスは公共のいかなる場所でも顔を完全に覆うヴェイルの着用を禁止するという物議を醸す法律を成立させた(当時そのような服装をしていた女性はフランス全土で367人しかいなかった)。

その時以来フランスではムスリムのヘッドスカーフと一般的なムスリムの女性の服装についていくつか議論が起こっており注目され続けている。

2016年の夏は「ブルキニ禁止令」が流行した季節として記憶されている。フランス全国の市長たちがイスラム教徒の女性が完全に体を覆う水着を着ることを禁止しようとしたのだ。これはマルセイユのウォーターテーマパークで「ブルキニ」イベントが許可されなかったことに端を発する。リヴィエラの都市カンヌでは公共のビーチで全身を覆う水着が禁止されることになった。当時のマニュエル・ヴァルス首相はこの禁止令に支持を表明し、こうした水着は彼が言うところによると「挑発行為」と「時代遅れの考え」を表現しているのだとした。その後、武装したフランスの警官がニースのビーチで女性と対峙し「ブルキニ禁止」に適合するように着衣の一部を取り除くよう強要している写真が注目されることになった。最終的に国務院はブルキニ禁止令を「深刻かつ重大な基本的人権の侵害」と判断しこの物議に終止符を打った。

こうしたヒジャブについての論争はフランスの植民地主義とイスラム嫌悪に対する執着を象徴していると言える。フランスの知識層や政治家はムスリムの女性が自身の体を管理する権利を受け入れようとしない。これがフランス産「世俗主義」の症状であり、目につくイスラム教徒と戦うことが最優先になってしまっている。

フランスで支配的になっている通説は、ヒジャブはイスラム教徒の男性がイスラム教徒の女性を隠して黙らせるために用いている弾圧用の道具だというものだ。それ故に、フランス人のイスラム教徒の女性が出てきて、公共の場で頭を隠すことを自分で選択しているのだと発言すると、彼女たちを代弁していたはずの人々は混乱に陥る。

フランスのヒジャブを取り巻く議論は他の国とは根本的に異なる状況から形成されることが多い。この議論の上では、フランスでヒジャブを身に着けた女性たちは国外の人々と比較される、彼女たちは他の市民と同じようにフランス人であるにも関わらずだ。ヒジャブそれ自体はどんな文脈の中に使える意味も持っていない。どうしたらこの布切れ一枚がフランスで、女性が法律によって公式に抑圧されている国と同じ意味を持つことになるというのだろうか?一部の女性にとってはヒジャブは男性による一般的な抑圧の道具であり、社会によって押し付けられたルールを守らされている象徴である。しかしフランスのような国では、普通ではないにしても、ヒジャブはイスラム教徒のアイデンティティを具象化できるものとなる。

もちろんヒジャブの着用の起源と家父長制については正統性に疑問を呈することができるだろう。女性らしさを表現する方法を議論することは完全に受け入れられる話である、それはつまり、他の誰でもなくフランスのヒジャブの女性たちこそが、フランスに於けるヒジャブの意味を定義する人たちでなければならないのだ。しかしながら、彼女たちが意見を言う場に招かれることは殆ど無い。メディアは彼女たちに理性のある正統なフランス人の女性として議論に参加させる機会を与えていないのだ。

しかし、ヒジャブの女性たちはイスラム教徒であることだけが理由で議論から遠ざけられているわけではない。

フランスは一般的に女性について問題を抱えた国である。例えば、カトリーヌ・ドヌーヴやブリジット・バルドーといった象徴的な人たちが #MeToo 運動に激しく抵抗したことが挙げられる。ドヌーヴは #MeToo 運動に反対して男性が女性を「困らせる」権利を守ろうとした公開書簡に署名した100人の女性のうちの1人だった。この書簡の文章は女性の自由を目的としている議論の中心に男性の欲望を置いたもので、女性を欲望の対象として抑圧し、常に男性の許諾を求めるべきであるとする文化を象徴する症状である。この考え方は髪を隠し控えめな服装をすることを自発的に選択する女性たちを拒絶し非難することと無関係ではない。

「女性の誘惑」が国家のアイデンティティの重要な側面と見られている国のことと考えれば、なぜヒジャブの女性が批判に晒されるのか理解するのは簡単なことになる。フランスでは「誘惑」する男性は「ドン・ファン」として尊敬され賞賛される。この文脈で、公の目から体の一部を隠すことを自発的に決断する女性は反国家的だと見られる可能性は想像できることだ。

社会が日々の嫌がらせ行為を黙認し、男性の困らせる権利すら守ろうとするこの国ではヒジャブの女性は暗黙の性別規範に挑戦していると見做されていると考えるのは難しくない。その結果として、フランスのヒジャブ論争はイスラム嫌悪の文脈だけで語ることはできないものなのである。ヒジャブについてのフランスの強迫観念を理解するためには社会における女性の立場や、女性らしさの表現の多様性について議論を進める必要がある。

フランスはだいぶ前にイスラム教をとにかく「問題を抱えたもの」であるとして、イスラム教とイスラム教徒を社会の見えるところから隠す方針を採用した。メネル・イブティッセムは何百万ものフランスの市民の生活に影響を与えている問題の犠牲者の1人に過ぎない。今日「ライシテ」の概念はイスラム教徒としての表現を違法とするために政府によって使われている。しかしながら、世俗主義は信条を取り締まるためではなく公平に基いて保つためにに存在しているのであり、そうでなければならない。すべての市民が攻撃を恐れること無く自由に自分の信念を表現できるうようにすることがその使命であるはずだ。

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