2009年7月26日日曜日

「エビデンス主義」ー統計数値から常識のウソを見抜く(角川SSC新書)




和田秀樹著

 以前の「グズ」の本で私を励ましてくれた和田秀樹さんの本。医学界で言うEBM(Evidence Based Medicine)をもとに世間一般の常識を見直してみようという本です。
 アメリカでこのEBM、「エビデンス主義」が発達したのはシステム的な理由がある。民間保険会社が医療費を払うため、保険会社に雇われた医者が必死で施された治療の中に無駄を探すそうです。医者が患者でなく保険会社を向いているのはけしからんが、と和田さんは断りをいれてますが、その結果、治療する医師もなんらかの根拠をもって治療なり投薬の処方なりをすることになり、結果的には患者の利益につながっているという。それと比較して日本の医学界ではエビデンスを重視する姿勢が希薄で、過剰な治療や投薬が放置されている状態になっている、と指摘しています。
 この「エビデンス主義」をエビデンス・ベースド・シンキングとして社会一般に広まっている常識についても考えて見る、というのがこの本の趣旨です。いわゆるマスコミの報道は、珍しいもの、ごくまれなケースを大きく取り上げるものです。特にテレビはそれを大々的にとりあげ、繰り返し報道することで、もっともらしい理論ができあがってしまう。そしてそれが世間で常識として認知されてしまうと、人はそれについて正しいことかどうか判断しなくなる。マスコミで偉そうな肩書きのついた人の口から語られる「もっともらしい理屈」を「疑ってみる」意識と、「都合の悪い事実を無視しない」姿勢が大事だと解いておられます。
 この本で和田さんが言う「エビデンス(evidence:証拠、根拠)」とは副題の通り、統計数値のことでなかなか興味深い事例とそれを証明した統計数値が数多く書かれています。個人的に印象的だったのは「自殺報道が自殺者数に影響する」という話で、それ自体は確かにそんな気も経験上しますが、統計数値上影響すると見ることができるそうです。これについてWHO(世界保健機関)が自殺の報道について、「写真や遺書を公開しない」「自殺手段の詳細を報道しない」「自殺理由を単純化して報道しない」等、の勧告を出していて、殆どの先進国はそれに従っているそうですが、日本は従っていません。その結果日本でも若年層の自殺がセンセーショナルに報道された年には同世代の自殺が増える、という統計数値が出ているそうです。
 後半「EBM」をもとにした「エビデンス主義」を振りかざして世間の常識に各論的に切り込んでいく、というのを期待してたんですが、それとはちょっと異なる展開で、マスコミ、政府の判断が「エビデンス主義」から見ていかに適当か、ということに対する不満を統計数値から見て語っているという感じでしょうか。勢い余ってか、ちょっと主張に根拠が欠ける、というか説明不足な部分もあるのですが、全体としては納得できる主張です。和田さんはマスコミを一応はまだ善意に捉えてる(「意図してではないと思うが」等つけられている)ということで書いています。個人的に私はかなり意図的にやってる部分も多いと思いますが。
 前回「グズ」の本の時も思ったんですが、和田さんは似たような主張を結構繰り返して言う傾向がある気がします。「グズ」の時は「グズ」向けに書いてるからわざとかな?と思ったんですが、今回もちょっとそう感じました。特に「ゆとり教育」については相当文句があったようで、かなり執拗に批判を繰り返しています。相当昔から批判的に見ていて結果的に”勝利”した形なわけで、「ほら見たことか」的な感じでしょうか。「ゆとり教育」の成り立ちついても「エビデンス」を求めずに、都会の一部の子供だけを見て進めた結果としています。こうなると、前回の寺脇研氏との関係が気になるところですが、2001年あたりに共著で本を書いたりしているようです。ぜひもう一度対談か何かをしていただきたいところ。
 統計数値というのは確かに優秀な「エビデンス」になりうると思うんですが、「今では簡単にインターネットで見ることができる」という形でそれを進められてしまうと、その信憑性というのが問題になるような気もします。医学上、何人が死んだ、何%がこの症状を見せた、ということはあまり意図が入る余地はないですし、その必要性があるとは思えないのですが、社会問題に関すると、収集の方法によってかなり意図的な結果が導きだせる場合もあるのではないでしょうか?「エビデンス」として数字を見せられると反論のしようがないだけにその収集方法と信憑性についてはもう少し考えてみる必要がありそうです。

2009年7月18日土曜日

憲法ってこういうものだったのか!(ユビキタ・スタジオ)


姜尚中 寺脇研

 「悩む力」「日曜美術館」の姜尚中氏と、「ゆとり教育」を推進したという元文部官僚寺脇研氏の対談形式の本。

 学校で日本国憲法を習うとき、その「三原則」として「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」というのが説明される。よく教科書には、3本柱のギリシャの神殿のようなものの柱にこの三原則が書かれていて、その上に日本国憲法なり、あるいは日本国そのものなりがのっかっているような図が書かれている。このイメージは実はわかりにくくて、本来は三脚のようなイメージが正しいはずで、一本抜くと三次元世界では安定を失って倒れてしまうというもののはずだ。ちなみに、壁にポスターを貼ったときは画鋲は2つで安定するのは壁が2次元世界だから。ヒラヒラするだろ、ってな考えは3次元だから。
 この三本に支えられて、日本国憲法は成り立っている、とされている。別に異論はないが、特にこのことに法的根拠はないと思う。それは良いとして、この本ではそれ以外にも憲法の中で章同士、条文同士に密接な相関性があるものだ、という話をしている。例えば、1章「天皇」と2章「戦争の放棄」はセットで考えるべきだと言う。確かに成り立ちから考えれば日本の武装解除と天皇中心の国体の維持というのはセットで考えられるものだったはず。この二人は現代においても平和維持に天皇は重要な役割を持っているという。それは私にはよくわからないが、例えかつての帝国時代の再来を恐れて天皇を廃したところで、混乱は生じてもあまり良いことがありそうもないのはよくわかる。
 大日本帝国憲法から、日本国憲法に憲法が換わったとき、帝国憲法の改正手続きにのっとって行われたらしいが、そもそも憲法の根幹に関わるものをすべてひっくり返すような憲法改正を行うことは可能なのか、という議論があり、「8月革命説」というのが私の知っている憲法学では通説になっていたはず。このこともあって、帝国憲法時代と日本国憲法の現代、戦前、戦中と戦後というのはかなり大きく断絶しているように感じられる。戦前確かに天皇は国民に崇められていたが、当時の超エリート層はそうでもなかったんじゃないか?というのが寺脇氏の話で、それで、安倍晋三(岸信介の孫)、麻生太郎(吉田茂の孫)は天皇を蔑ろにして、靖国神社に参拝なんかするんじゃないか?とのこと。
 個人的に私も昔から帝国憲法の時代と日本国憲法の現代の断絶というのは思い込みがあって、戦前というのは言論統制があって、なにかあると憲兵がやってきて、というような暗くて恐ろしい時代を想像しがちだ。この本にも書いてあるけれど、実はみんながみんなそうではなかったはず。だから、帝国憲法の時代も良い時代だった、ということではなくてそのときを切り取れば普通の生活をみんなしていたはず。普通の生活の中から後から見るおかしい状態になっていった、ということ。歴史のなかで、今から見ればヒステリーのように戦争に傾いていったり、侵略をしかけていったり、というのは暗い、苦しい時代の中からおこることではなくて、普通の生活のあったなかで起ったことというのを私たちは理解しておかないといけない。今は戦後か、戦前か?

 この寺脇研さんという人は言葉使いとして、「護憲派」「左翼」「社会主義者」というのがよっぽど嫌いらしくて、全部ひとまとめにこれらを批判するのがあくまで言葉遣いとしてちょと鼻についた。言ってることは殆ど頷けることばかりなのだけれど、私は自分が「護憲派」で「社会主義者」だと自負しているので。「左翼」はちょっと意味がわからないので置いておく。

2009年7月5日日曜日

自殺する種子(平凡社新書)


安田節子著

たまにはこんな本も良かろうということで選んで見ました。「巨大アグロバイオ企業(農業関連生命工学)企業が遺伝子工学を駆使して云々」という紹介がついてますが、その話を中心に市場経済の話から、有機農業の話まで広範囲に語られています。確かに全体を見ていかないと見えてこない話だと思いました。

農家が来期蒔くための種子をどう確保するか、ということについて日本では自分の収穫物の中から種を残しておく「自家増殖」はあまり多くないそうです。しかしなんとなくですが、農業の基本はその「自家増殖」のような気もします。アメリカで「自家増殖」を続けていて、全く身に覚えの無い農家が「お前の畑はうちの特許を侵害している」と訴えられた、という事件があったそうです。企業がその農家の農作物を勝手に調べて、自分のところで遺伝子組み換えで作った作物を作っていると言って訴えたということのようです。他に550件同じような訴えをやっていて殆ど農家側の予算の都合で示談になってるが、シュマイザーさんという農家の方が裁判を戦って「シュマイザー裁判」として有名になっています。結局最高裁まで言ってシュマイザーさんはなんと敗訴したそうです。

訴えずとも絶対に自分のところから来期も種子を買わせよう、というのが「自殺する種子」で、当然実にはなるが二回目の発芽の時には毒が回って発芽しないようになっているとか。

確かに種屋の側から一方的に考えたら折角一生懸命開発したものを毎年自分で蒔かれたら困るわけで、それを防ぎたい気持ちはわかります。しかし、それを言い始めたらそもそも種を売るという商売の不安定さはおそらく昔からあるのではないでしょうか?そこに「遺伝子組み換え」という技術と、「特許」という政府のお墨付きが与えられたことでアグロバイオ企業が必要以上に力を持った存在になってしまっている、ということでしょうか。

もちろん米国内にもこうしたことを規制する動きもあるようですが、アグロバイオ企業はアメリカ社会の中で大きな力を持っているのは確かです。当然こうした話が日本に押し付けられてくるのがいつものパターンです。日本の大豆の自給率は既に5%しかないそうで、食用の80%は米国産だそうです。で、その米国産の大豆の91%は遺伝子組み換えされたものだそうで、つまり「日本の食用の大豆の72%は遺伝子組み換え」だそうです、ちょっと突っ込みどころがありそうな気もしますがそういうことだそうです。

言わずと知れたことですが日本の食料自給率は27%しかありません。かつてCIA筋からは「食料は米国にとっての最終兵器である」という報告もあったそうで、これは意図的にそういう状態にさせられている、と見るのが正しい見方でしょう。農作物の輸入拡大が散々求められているのも「日本の車を海外に売るため」ということで納得させられてきた気もしますが、ことはそう単純ではないはずです。日本の政府とマスコミは、余程アメリカから利益を得てるようで、恐ろしいほどアメリカ政府に従順です。アメリカがいつ「最終兵器」を使うつもりなのかはわかりませんが、すでに十分準備は整っている、というところなのでしょうか。