How the NRA went from backing gun control to America’s most powerful lobby group https://t.co/Ygorx5yK66— The Independent (@Independent) May 28, 2018
強い影響力を持つNRAは銃乱射事件が起きているにも関わらず武器への容易なアクセスを主張し続け、より緩い規制を支持してキャンペーンを行っている
Independent
Joe Sommerlad
28 May 2018
全米ライフル協会(NRA)はアメリカで最も古い市民による権利団体であり、会員数600万を誇るアメリカで最も政治的に影響力を持つ団体である。
ダナ・ローシュのようなNRAの広報担当者は、銃乱射事件に関連したテレビ番組に出演し、娯楽産業による悪影響が真の脅威であり、銃を減らすのではなくより多く販売することが解決策になると主張する。
しかし、この団体は起源から見ると長い間に道を外れてきている。南北戦争の後に設立されたNRAは1968年までは銃規制に賛成する立場だった。
NRAは、ニューヨークの2人の退役軍人、ジャーナリストのウィリアム・コナント・チャーチと弁護士のジョージ・ウッド・ウィンゲートによって1871年11月16日に最初に認可を受け設立された。NRAの当初の目的は射撃技術の向上であった。彼らは南北戦争で南軍の兵士に1発を命中させるために1000発の弾丸が使われたという北軍の公式統計にショックを受けたのだった。
その9日後にロードアイランド州の銃器職人アンブローズ・バーンサイドが最初の会長に選出された。
初期の時代には、憲法修正第二条の武器保有の権利を騒ぎ立てて主張するようなことはなかった。NRAは単にハンターが射撃技術を訓練することに関心を持ち、銃を所有することの責任を啓蒙していた。米軍は彼らの大義のために余剰のライフル銃を寄付し、ニューヨーク州はロングアイランドのクリーモアに最初の射撃場を建設する資金の援助さえ行った。
NRAは19世紀後半にも拡大を続け、全米各地に新しいクラブが設立され、会員数も増え続けた。イギリスとアイルランドのグループを相手に長距離射撃大会も開催した。1883年には元アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントがNRAの会長に選出された。
米国議会は1901年に全米ライフル実践推進委員会を設立、1903年にはシビリアン・マークスマンシップ・プログラムを開始し、1907年にはNRAに対し本部をワシントンDCに移転するよう促した。これが圧力団体になる最初の契機となった。
禁酒法時代、トンプソン・サブマシンガンでアル・カポネのギャングたちがシカゴの通りで争い、ジョン・デリンジャー、プリティ・ボーイ・フロイド。ボニーとクライドと言った田舎の銀行強盗たちがセンセーショナルに新聞を賑わしていた頃、NRAは連邦火器法(National Firearms Act.)を支持した。
1934年に制定されたこの法律は、アメリカで初めて銃を規制するものだった。これに続いて1938年銃規制法が制定され、この2つの法律はマシンガン、ソードオフ・ショットガン、サイレンサーの所持に重税と新たな規制を設けて所有者に登録を求めるもので、NRAの支持を受けて進められた。
NRAの当時の会長カール・T・フレデリックの見解は、現在のNRAのレトリックとは全くかけ離れたものだった。「私は一般的に武器を持ち歩く習慣を支持したことはない。武器携行は厳しく制限されるべきで、許可の下のみで行われるべきだると考えている」
全てが変わったのは、1960年代にジョン・F・ケネディ大統領、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士、ロバート・F・ケネディが相次いで暗殺されたことで無秩序感が支配的になり、ワッツ暴動やデトロイト暴動、公然と武器を振り回すブラックパンサー党の武装勢力への対応についての政治的な懸念で市民が不安に陥ったことからだった。
JFKを銃撃したとして逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、NRAによって推奨されたカルカノライフル銃を通信販売で所有していた。米国議会は州を跨いだ銃器の販売を制限するために、すばやく1968年銃規制法を制定した。
NRA会員の間ではアメリカの銃法制の未来に不安が高まり始め、1971年7月7日、アルコール・タバコ・火器取締局(ATFD)の職員がNRAのメンバーであるケニオン・バルウをメリーランド州シルバースプリングの彼の自宅に急襲し頭部を銃撃したことで更に事態は悪化した。
退役軍人だったバルウは新聞の印刷工でボーイスカウトのリーダーも務めていた。ATFDはバルウの家に未登録の銃や手榴弾が備蓄されているという10代の窃盗犯からの情報を信じていた。正面のドアから突入し、バルウは1847コルトレボルバーのレプリカを握った職員に対し裸になって対応したが、3人の私服警官が発砲しバルウは一生左半身に麻痺を残すことになった。
その後、武器が発見されてバルウが法を犯して武器を所持していたことが明らかにされたため、連邦裁判所はこの行動を正当なものと判断した。NRAはこの事件でATFDを厳しく非難し、公式雑誌「アメリカン・ライフルマン」では「ゲシュタポのような戦術」と評し、車椅子のバルウをイベントに参加させて「銃規制法の犠牲者」の看板として利用した。
NRAは1970年代を通して政治化されていった。1975年に最初のロビー活動機関である立法措置研究所(ILA)を設立した。更に1977年5月21日にオハイオ州で行われた年次総会ではNRA内の急進的なメンバーが、銃所有者の利益を守るために指導部に対して積極的な活動を要求した「シンシナティの反乱」としてNRAに伝わる出来事が起こったのだった。
この出来事の結果、ILAのトップであったハーラン・カーターがNRAの副会長に新たに選任された。テキサス州の弁護士であるカーターは、かつて自動車泥棒と疑われた男を銃撃して致命傷を与えたことがあり、1950年代には国境警備隊長を務めた経歴の人物だった。カーターは「銃を攻撃しても犯罪は止まらない。犯罪者を止めれば犯罪は止まる」と主張し、銃規制に対するこの姿勢はこれ以降NRAが遵守するものになっている。また、ILAのトップも同様に強硬な態度をとるニール・ノックスによって引き継がれた。
この時からNRAは政治報告書に基づいて連邦議会議員を格付けする悪名高いシステムの運用を開始した。これは各議員がNRAの目的とどの程度同調しているかでAからFまでに格付けし、それに応じて寄付活動を行うものである。
NRAは1980年に初めて大統領候補に支持を表明した。それは共和党のロナルド・レーガンで、彼はNRAのメンバーで、ちょうど1年後に暗殺未遂事件に巻き込まれることになる。この事件でレーガンの報道官だったジム・ブレイディが銃撃され重傷を負う。その後1993年に彼の名を冠してブレイディ法と呼ばれる銃規制法が制定された。この法律によって拳銃の販売に5日間の猶予が設けられ、購入希望者について連邦機関に経歴を確認することが義務付けられた。
1994年にビル・クリントン政権によってアサルト・ウェポン規制法で更に厳しい規制が導入された。民生用の半自動小銃と大容量弾薬の製造禁止を求めるものだった。NRAはこの法案に反対したが、いずれにせよ時限立法であり2004年に更新されることはなく「日没条項」によって失効した。
NRAは1996年に最も効果的な「勝利」を手にしている。これはディッキー・アメンドメントとして知られるロビー活動に成功したもので、疾病予防センター(CDC)による資金で銃暴力に関して学術的に研究することを制限するというものだった。CDCの予算が「銃規制を主張するために利用されるかもしれない研究」に投資されることは許されないとする規則は極めて効果的で、この問題に対するNRAの支出は96%削減され、全体で56億ドルの予算のうち10万ドルの支出にまで抑えられた。
同様にNRAは、銃所有者を名前で追跡する検索可能なオンライン上のデータベースへのアクセスについて数十年間ATFDに反対し、良い結果を得ている。
1998年にNRAの会長に就任したハリウッドの俳優チャールトン・ヘストンは、民主党の大統領候補アル・ゴアに対する叱責で記憶されている。ヘストンは、ゴアがライフルを称賛しなければならなくなるだろうと宣言したのだった。また、ヘストンは2002年のマイケル・ムーアによるドキュメンタリー映画、ボウリング・フォー・コロンバインの中で高校の銃乱射事件におけるNRAの役割について問われたが、回答を拒否して退席したことでも記憶されている。
それでも、NRAはアル・ゴアのジョージ・W・ブッシュに対しての敗北を確実にしたと評価され、フォーチュン誌にアメリカで最も強力な利益団体と称された。
21世紀を迎えてもNRAは利益のために積極的な闘いを続けている。2008年には連邦最高裁判所で連邦拳銃規制に反対し、2013年には銃販売時の購入希望者の履歴確認の強化に動いた議会の動きを阻止することに成功した。サンディフック小学校銃乱射事件直後はこの法案の支持率は91%もあったものだった。
今日、NRAの財政力はかなりのものであると考えられている。いくつかの試算によると一丁の銃が売れる毎に1ドルが入るとされる。また、スミス&ウェッソンやベレッタUSAを含む22の銃器メーカーから毎年の寄付を受けている。
しかし、本当の強さは間違いなくその支持基盤にある。NRAは高度に組織化された政治的に積極的なメンバーに依存しており、彼らは明確に「銃規制にノーを」という一つの意志で統一されている。2014年に放送が開始されたNRA TVを通じて、ライフスタイルの選択肢として銃を所有する視聴者を育てるために、現代アメリカが晒されているあらゆる脅威を悪夢的に描写し市民に武装して備えるのが唯一の解答だと示そうとしている。「私たちの最大の武器は真実だ」とこの放送では述べられる。
NRAは現在アメリカ社会の中でかつてない程に役割について疑問を持たれている。昨年の秋、ラス・ヴェガスのカントリー・ミュージックのイベントで58人が死亡し、851人が負傷した銃乱射事件が起こり、殺人犯人であるスティーブン・パドックが使って恐るべき効果を見せたバンプファイアと呼ばれる全自動火器化装置が注目を集めることになった。司法省はこうした速射装置への改造を禁止することを公約している。
今年2月フロリダ州パークランドのマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で起こった銃乱射事件で生き延びた高校生たちの努力は、アメリカに銃規制の議論を再燃させることに大きな役割を果たした。ソーシャルメディアによる #BoycottNRA というキャンペーンは多くの企業に対し、特にレンタカー会社のハーツ、アヴィス、バジェットとの関係を断つように圧力がかかったのだった。また、AppleとAmazonはNRA TVの配信を止めることができなかったことで批判を集めた。
風刺報道のジ・オニオンは学校の銃乱射事件を定期的に大きく取り上げて「『これを防ぐ方法は無い』と言ってるのはこれが定期的に起こっている国だけ」として、残虐な事件の後に過熱するオンライン上でのNRAに対する批判の熱を保ち続けようとしている。
学校で起きる銃乱射事件に対する現在のNRAの態度については、間もなく引退する副会長ウェイン・ラピエールに代表されている。それは「銃を持った悪い人を止めることができるのは、銃持った良い人たちだけ」というものだ。ラピエールは寄付を求める手紙で連邦政府機関を攻撃し、「法律を遵守している市民を攻撃するために、ナチスのヘルメットと制服を着用している政府による殺人者」という一文を添えることで有名な人物である。この文章があまりに攻撃的だったため、ジョージ・H・W・ブッシュは1995年に会員証を返上した。
当然ながらこのラピエールは、学校にもっと銃を用意して問題解決にあたるというドナルド・トランプの考えを支持している。アメリカの教師の20%に武装をさせただけでも700,000の武器が売れることになる。
NRAの次期会長であるオリヴァー・ノースが最近CNNに語ったところによると、アメリカの高校で銃乱射事件が伝播しているのは「若者が暴力の文化に浸っている」のが理由だという。ノースは過去にリアルな戦争をテーマにしたビデオゲームである「コール・オブ・デューティ:ブラック・オプス2」の開発にコンサルタントとして参加していたことは忘れたことにしたようだ。CNNのキャスター、アンダーソン・クーパーはこの問題に関するノースの態度を「明らかな偽善」であると非難している。
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