2018年9月4日火曜日

「言語」と「方言」の違いとは何か?


話すことは物事を単語を使って表現するということよりも複雑なものだ


The Atlantic
JOHN MCWHORTER
JAN 19, 2016

言語と方言の違いとは何だろう?クエーサーとパルサーやウサギと野ウサギの間にあるような、なにか技術的な区別が存在しているのだろうか?この疑問に直面すると言語学者たちは、イディッシュ語学者で言語学者のマックス・ヴァインライヒによる大昔の見解を繰り返すことになる。「言語とは、方言に陸軍と海軍が付属したものだ」

しかし、この痛快な名言が示唆するよりもこの2つの違いは確実に深いものだ。「言語」と「方言」が異なる概念として維持され続けているという確かな事実は、言語学者たちが世界中で話されている言葉についてきちんと区別できていることを意味している。しかし実際のところ、この2つには客観的な違いは存在しない。どうにかして区別をつけようと試みたとしても、現実の証拠に直面して理論は破綻してしまう。

しかし、これは考えたくなる命題である。例えば、英語を喋る人なら言語というのは基本的には方言の集合体であると考えてみたくなるだろう。同じ言語内の異なるすべての方言は、多かれ少なかれお互いに理解可能なものである。コックニー、南アフリカ、ニューヨーク、アフリカ系アメリカ人、ヨークシャー、こうした人々の言葉は、ある主題についてお互いに理解可能なバリエーションになっている。これらは「言語」と呼ぶことができる1つのものの「方言」ということで良いのだろうか?一方で、英語は全体としては独立した「言語」のように見える。欧州北部で話されているフリジア語は英語と最も近い関係にある言語とされるが、その間には明確な境界線が存在し、英語しか理解できない人には理解不能な言語である。

英語から考えると「理解可能性」に基づけば方言と言語の明確な区別ができそうだ。あなたが何の訓練も無しに理解できるものはあなたの言語の方言だ、ということになる。しかし、これは歴史の気まぐれによって英語には近い親戚がいなくなっているためで、この「理解可能性」の基準は他の言語に一律に適用することはできない。世界を見れば、相互理解が可能で人によっては「方言」と考えられるようなものも実際には別な言語として扱われている。同時に、外部の人から見て、相互に理解できない「言語」に見える言葉も、その地域では方言として捉えられている場合もある。

私にはデンマークの会議で会うスウェーデン人の友人がいる。私たちがデンマークで一緒に出かける時、彼には言語的な不都合が全く無い。彼は自分の国とは異なる「言語」であるデンマーク語を話す別な国にいるにも関わらず、スウェーデン語で普通に食べ物を注文し、道を尋ねることもする。実際私は、スウェーデン人、デンマーク人、ノルウェー人がそれぞれの母国語で話しながら3人で楽しそうに会話をしているのを見たことがある。スウェーデンに移り住んだデンマーク人はスウェーデン語のレッスンを受けることはない。変化に合わせて調整するだけでよく、母国語に代わるものではないのだ。こうしたスカンジナビアの言葉を話す人々はこれらを別々な言語と見做している、それは別々な国で話されているからだ。しかしスウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語の間に「言語」として分類されるような違いはなく、特に文字にすると1つの「言語」の方言として見るのに十分なほどお互いによく似ている。

一方で、一般には北京語、広東語、台湾語は全て中国語の「方言」であるとされる。しかし、単一の「中国語」は、各言葉が同じ書記体系を持っていて、それぞれの文字が(多かれ少なかれ)他の方言とも共通しているという意味で紙の上だけに存在する。例えば北京語と広東語はスペイン語とイタリア語よりも異なっている。北京語で「私」「あなた」「彼」は 「wǒ」「 nǐ」「 tā」だが、広東語ではそれぞれ「ngóh」「léih」「kéuih.」となりかなり違いがある。北京語を話す人が広東語に適応するには「調整」だけでは済まず、スウェーデン語を話す人がドイツ語に「調整」するよりも大変である。

世界を見ると、スカンジナビアの言語や中国語のようなケースはいくつもある。モロッコの口語「アラビア語」はヨルダンの口語「アラビア語」とは、ポーランド語とチェコ語くらい異なっている。モロッコ人とヨルダン人がお互いに意思疎通を図るためには、フスハー(標準アラビア語)を用いなければならないだろう。フスハーは大体においてコーランが書かれた時のアラビア語が保存されてきたものである。アラブ諸国の文化的結束によってモロッコとヨルダンは同じ「アラビア語の一種」を話していると考えている。一方で、チェコ人とポーランド人は異なる言語を話していると考えている。そして、私がチェコにいる間には「チェコスロバキア語」という言語は少なくとも名称に於いては存在しなかった。チェコ人とスロバキア人はたいてい普通に会話をすることができる。しかし、彼らは、歴史的、文化的な要因から異なる「言語」を話しているのだと考えている。

こうしたことは、ここまでがある言語でここからが別な言語だと正確に判断することが不可能なことを明らかにしている。

例としてエチオピアのある言語(方言?)の存在がある。カリフォルニア大学サンディエゴ校のシャロン・ローズ氏のデータによれば、ソッド語を話す人々は「彼は屋根を葺いた」という意味のことを【kəddənəm】という。(「e」が逆さになったものは「foot」の中の「oo」のように発音する)。遠く離れていない地域でムヘル語という言語を話す人々は同じ単語を k の代わりに kh を用いて【khəddənəm】という。もう少し離れた地域でエズハ語という言葉を話す人々は n のところに r を用いて【khəddərəm】という。更にギェト語では同じ単語を【khətərə】という。そして エンデゲン語では kh の代わりに h を用いて【həttərə】となる。さて、私たちはどこからどこまでを1つの同じ言語として見ることができるのだろうか。ソッド語の【kəddənəm】とエンデゲン語の【həttərə】とは、日曜日をフランス語で【dimanche】イタリア語で【domenica】と言うのと似たような違いが見られる。しかし、ソッド語とエンデゲン語の間にはお互いに通じ合う程度に少しずつ違ったいくつかの段階があり、上に示したのはそのうちの一部である。もしこうした段階のことを「方言」というのならば、これらは何の「方言」なのだろう?ソッド語とエンデゲン語は同じ言語の両端なのだろうか?

こうしたものは全て単純に方言である。両端にあるものは相互に理解ができず、自分たちが同じ「言語」を話していると感じていなくてもだ。西ヨーロッパでも成文化される前は、村から村に同じように口語で伝えられていたが、最近になって農村の方言は確実に消え始めている。現在この地域はポルトガル語、スペイン語、イタリア語といった「言語」の本拠地と認識されているが、かつてこの地はポルトガルからイタリアまで徐々に変化していくロマンス語の「方言」が存在していた。それぞれの国では歴史上の偶然により1つの「方言」が標準語として選ばれて文字にされることになったが、実際の生活ではエチオピアの例とよく似た状況だった。現在でもこの歴史の名残を見ることができる。スペインのカタルーニャ語で「鍵」のことは【clau】と言う、少し北に移動してオック語でも【clau】である。しかし、もう少し北に移動して、あまり知られていないフランコ=プロヴァンスと呼ばれる田舎の地域では【clâ】となり、スイスの山中のロマンシュ語では【clav】となり、イタリア北部ピエモンテでは【ciav】(発音は「chahv」)となる。そしてイタリアの標準語で言う【chiave】(発音は「KYAH-vay」)となるのである。

「言語」と「方言」を区別するという考えはここでは論理的に使えるものではない。多くの場合、口語は場所によって少しずつ異なっている。人はいくつか谷を超えても何とか話をすることができるが、遠くに行けば行くほど難しくなっていく。ある程度の距離を超えれば誰もの話が全く理解できないものになるのである。

ここまで来て「言語」と「方言」を正式に定義づける試みを続けることの理由になる唯一のものは、おそらくどの程度広く利用されているかということだろう。言語は成文化されて標準化されている、そして文学になっている。一方で方言は口頭で規則が定められておらず文学にはなっていない。ここで文学を用いることでありそうな反論としては、境界線上に記憶して伝えられる口承文学が存在していることだ。イリアスとオデュッセイアの起源は口承文学だった可能性が高い。しかし、記憶が多くのこと多くのことを保持することができること、ギリシャの吟遊詩人たちはそれがどこから伝わったものかを理解していたことを考慮するとしても別な問題が存在する。

つまり、この考え方は「方言」は何かが劣っていることを暗示している。思考や抽象概念を展開するには適していないために文学には用いられないというほど、方言はあるレベルでは精巧でないものだということだろうか?私は一度見た絶妙なあるやり取りを思い出す。ネイサン・レインが演じるアスコットタイと長いスカーフを身に着けた気取った感じの男と、サシャ・バロン・コーエンが演じる背筋が伸びた真面目で少し用心深そうな男との間の会話である。ネイサンがサシャに何かを尋ねるとサシャは「ウズベク」と答える。ネイサンは気さくに「それは方言かい?」と聞く。サシャは殆ど怒鳴る感じで「違う、美しい言語だ」と答えるのである。

サシャの神経質さはさておき、これは一般に「方言」だと教えられるものは何処か低俗で単純なものであるということを否定したケースである。あまり知られていない不文律の「方言」がよく知られた「言語」よりも文法的に遥かに複雑なことはよくあることだ。外交官養成局は英語を話す人にとって学んで話すことが難しい言語をランキングしている。フィンランド語、ジョージア語、ハンガリー語、モンゴル語、タイ語、ベトナム語が最も難しい言語に含まれている。ネイティブ・アメリカン、オーストラリア諸語、アフリカ固有言語等は難易度で言えば簡単な方に入るかもしれないが、世界中にある無名の言葉の中には養成局の難易度などはおもちゃのように見えてしまうものが存在する。例えば、コーカサスの山中で使われているアルチ語では1つの動詞が1,502,839通りに活用する。この数はこの言語を話している人の数(約1,200人)の1000倍以上ということになる。

それでは英語という「言語」を見てみると walk、walks、walked、walking 。仮に精巧さが言語と方言を分けるとするならアルチ語の方が英語よりも「言語」として相応しいということになる。

ここまできて、言語というのは方言に陸軍と海軍が付属したものだという話に戻る。あるいは、言語というのはお店のショーウィンドウに陳列された方言である。人々が標準として方言の1つを選びだしたことによって、多くの人々同士が最大限効率的にコミュニケーションをとることができるようになっている。これ以上 clau か clav か ciav かで悩むことはない。しかし標準化というのは何かを「より良く」するという意味ではない。カソリック系の学校に制服があることは毎日違う服を着ることより「良い」ことなわけではない。

そして成文化された方言には単語を集めた辞書が存在することになる。オックスフォード英語辞典にはアルチ語やエンデゲン語のそれよりも多くの単語が収録されている。出版物の存在は、英語を話す人が時間をかけて行ったり来たりせずに多くの単語を収集整理することを可能にした。しかし、単語は人間の言葉を形作る一部分でしかなく、言葉を使いこなすにはそれを組み合わせる方法を知らなければならない。そして、アルチ語やエンデゲン語の単語を扱う方法を知るには独自レベルの精巧さが必要になるのである。

結局言語と方言の間にある違いとは何だろう?一般的な使われ方では、方言はただ話す時に使われるものである、一方で言語は話す時に加えて書くことにも使われる。しかし、科学的な感覚で言えば、世界は質的に等しい「方言」の不協和音によって賑やかになっている。それは色のようにお互いの陰影を彩り(時には混ざりあって)、人間の言葉がどれだけ壮麗に複雑であり得るかを示している。単語としての「言語」や「方言」を最も客観的に使うならば、「言語」のようなものは存在しないと言うのが最善の手段ということになるのかもしれない。方言は常にそこに存在するものだ。「それは方言かい?」とネイサンに聞かれたら、サシャは「そう、美しいやつさ」と答えることができただろう。そして、ネイサンは自分も「方言」を喋っていたことを理解したに違いない。

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