2018年7月5日木曜日

フランスを団結させるラ・マルセイエーズが不和を生む?


フランスでは学校の授業で子供たちにラ・マルセイエーズを学び歌うことを求めている。しかしこの人々を奮い立たせる国歌は現代のフランスの人々を象徴しているだろうか?


The Conversation
David Andress
July 2, 2018

フランスの教育カリキュラムの変化が英国でニュースになることは稀だが、「小学校でラ・マルセイエーズを学び歌わせる」という最近の決定についてはタイムズテレグラフ両方が伝える価値があると感じたようだ。

国歌が存在する以上、学校で多少の時間を使ってそれについて学ぶというのはあるレベルでは完全に自然な話だ。しかしこの歌が何であるかという基本的な疑問を考えて行くと、この決定はそう単純ではないように思えてくる。

多くの場合国歌とは、前からあった一般的で愛国的な短い歌曲が採用されるか、国家の美徳を讃えるありふれた歌が作られるものである。しかし、ラ・マルセイエーズはそうしたものとは一線を画し、国家の存亡を賭けて集まった人々の本当の叫びである。この歌はフランス革命から他の欧州主要国との戦争に突入する1792年に書かれたもので、反革命的な侵略の不安と恐怖を歌っている。

我らに向かって 暴君の
血まみれの旗が 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!

しかし同時に「祖国の子供たち」が招集される「栄光の日」でもあり、脅威を煽った後にはコーラスを爆発させる。

武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!


人間の盾


戦争の前線へ赴くために、そしてパリの君主制を倒すために行進した何千もの志願者たちがこの歌の言葉を空に向けて叫び、フランスに共和制の伝統が誕生することとその後何年も続く戦闘から守り抜くことを予告していたのだった。19世紀の初めの様々な君主制の時代にはこの歌はしばしば抑圧の対象となるが、同時に急進的で革命的な抗議運動の国際的なレパートリーの一部となっていった。そしてフランスが確かに共和制の国家となった後、1879年についにこの歌が公式な国歌に再度選定されたのだった。



この伝統的な重みは映画「カサブランカ」の有名なシーンに見ることが出来る。ナチズムから逃げてきた人たちを含むリックの店の常連客たちは、ドイツの軍人たちが歌う彼らの反フランス的な愛国歌「ラインの守り(Die Wacht am Rhein)」に対抗してこの歌を絶唱する。これが本来のラ・マルセイエーズの純粋でシンプルな意味なら、この歌を心から学び毎日歌うことに反対することができるはずがあるだろうか?


帝国主義の遺産


しかしカサブランカがあるのはモロッコである。モロッコは1912年、欧州列強による競争の時代に帝国主義の常套手段である武力と策略の組み合わせによりフランスの「保護領」にされてしまう。隣国のアルジェリアはそれより数十年前にフランスの不可分な領土であると宣言されていた。ヨーロッパがナチスから解放されたと宣言されたまさにその日、1945年5月8日フランス軍は独立を求めて抗議するアルジェリア人を攻撃し、100人を超えるフランス人入植者と数千人のアルジェリア人が死亡する紛争が始まった。この後の20年間フランスの歴史は帝国領からの独立を阻止する残忍な拒否行動で汚される。この一連の戦争では数十万人が死亡した。

ラ・マルセイエーズには帝国主義の歴史、そして人種差別と不平等の遺産がついて回っている。21世紀になるとこのことに議論の余地はなくなった。この歌は国家が攻撃を受けていることの象徴として前面に現れる。2015年の1月と11月の2回、テロ攻撃の後にフランスの国民議会はこの歌を歌って団結している。しかし、このテロ攻撃はアフリカに起源を持つ社会から孤立した青少年の先鋭化について困難で未だ答えのない問題を呈したのだった。



さらに頻繁にこの国歌が論争に巻き込まれるのはスポーツイベントの時、特にフットボールの試合の時である。皮肉にもフットボールについてはナショナル・アイデンティティと政治に関わる話題が毎年ニュースになっている。1998年、自国開催のワールドカップを優勝したフランス代表は多民族が団結した歴史的な展示のように見えるものだった。しかし、2001年アルジェリア代表チームが初めて試合相手としてパリに来た時、ラ・マルセイエーズは観客席にいたかつての植民地にルーツを持つ人々による大きなブーイングの嵐で迎えられたのだった。この試合は最終的にピッチへの乱入者により没収試合となっている。

歴史家のローラン・デュボワはこうした緊張感の高まりを記事にしている。これらのことは1996年、極右政党国民戦線の当時のリーダーだったジャン=マリー・ルペンによる煽情的なコメントに端を発している。彼は、白人以外の国歌を歌わないフットボール選手たちを「偽のフランス人」と発言したのだった。前の世代の選手たちからの実際誰も国歌を歌ってはいなかったという指摘にも効果はなかった。ルペンは没収試合となったアルジェリア戦が行われたスタジアムの前で、非白人の観客がブーイングしたことを引き合いに出しながら2002年の大統領選挙戦を開始した。そしてルペンは2017年に彼の娘のマリーヌがそうなったように、左派候補を押しのけて大統領の決選投票まで残ることに成功したのだった。


人種差別主義と外国人嫌悪?


こうした物議を経てラ・マルセイエーズと人種問題との関係が強化されていった。2014年、アフロカリビアン系で司法大臣だったクリスチャーヌ・トビラが、奴隷制度廃止を記念する式典で国歌を歌っていなかったとして、ソーシャルメディアと保守派の野党に標的にされた。彼女の支持者たちは他の多くの政治家も同様だとしてビデオを制作したりもしたが、この件はフランスで最も有名な黒人政治家の1人であるトビラに対する攻撃パターンの一部となった。

反対側からはこの歌の歌詞、特に「不純な血」の部分は本質的な人種差別主義だと捉えられるようになり、トビラの事件の後、俳優のランベール・ウィルソンはこの歌詞を「酷く血にまみれた人種差別主義と外国人嫌悪」と呼んだ。歌詞を変える、もしくは国歌そのものを変える運動も存在しているが、いくつか言葉を変えることでは社会の根底にある人種差別に対処することにはならないという主張もある。

2015年からパリとその他の地域で続くテロリストによるショッキングな行動はこうした言い争いをある意味で落ち着かせることになった。クリスチャーヌ・トビラは2015年11月の国民議会の映像ではラ・マルセイエーズを一緒に歌っているのを見ることが出来る。しかし一方でこの争いの背後にある緊張は高まりを見せる。トビラ自身は2ヶ月後、有罪判決を受けたテロリストからフランス国籍を剥奪する提案を支持することに難色を示し司法大臣を辞任した。

2017年の大統領選挙は、フランスの植民地政策の歴史にあるメリットについて、そして、革命と帝国主義の過去を真のフランス人であるには受け入れられなければならないのかどうかということについて、明確に右翼的な領域で争われることになった。

帝国主義時代の非白人の子孫たちは都市を取り巻く貧困地域に居住し続け(かの有名なバンリューである)、そしてどんな政府の下でも経済政策の不作為と警察による蛮行を経験することになる。フランス大統領エマニュエル・マクロンはラ・マルセイエーズに焦点を当てた新しい教育制度に沿って、すべての16歳を普遍的に徴兵する政策を発表している。こうしたことが「祖国の子供たち」を団結させるのに十分なものなのかはまだわからない。そして彼らは何処に向かって行進していことになるのだろう。

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