2018年1月7日日曜日

退廃と堕落のアメリカ合衆国


ドナルド・トランプが問題なのではない、私たちみんなの中のドナルド・トランプ的なものが問題なのだ。


Foreign Policy
JAMES TRAUB
DECEMBER 19, 2017

著書「ローマ帝国衰亡史」の中で、エドワード・ギボンはゴート族の軍隊がローマに襲いかかる準備をしていた紀元408年当時のローマを不気味に描き出している。ローマ帝国の退廃の兆候は公的な贅沢さと浪費のグロテスクな表出のみならず、理性と科学への信頼が崩壊していたことにも現れていた。ギボンの書くところによれば、ローマの人々は占星術師の唱える「幼稚な迷信」や「人間の内蔵から将来の反映の兆しを読み取る」占い師に傾倒していた。

後の世のギボンのような歴史家は今日のアメリカについて「退廃」と記すだろうか?私は最近著名で親米家であるフランス人の思想家が(私的な会話だが)そう語っているのを聞いた。彼は延々と続くドナルド・トランプ・アメリカ大統領のツイートについてのニュースとセクシャルハラスメントが延々と明らかになっていくのを見比べてその言葉を使う気になったのだった。私は思わずたじろいでしまった、それはおそらくフランス人がアメリカ人について退廃的だと批判するのは筋違いだろうと考えたからだ。そして私は彼がハーヴェイ・ワインスタイン等のセクハラ事件に対する反応はヒステリックな純血主義の現れではないと言いたいのだと考えたからだ。

しかし話はちょうど収まる。その言葉によって引き起こされる腐敗の感覚は私には酷く適切なものに見えるのだ。

おそらく民主主義の社会に置ける退廃の特徴というのは遊蕩のことではなく末期的な自己陶酔なのだ、それは集団行動、共通目的の信念、あるいはごく一般的な理論を受け入れる能力すらも失ってしまうことだ。私たちは偉大なことを壮語しながら私たちを大惨事に導こうとしている降霊術師の話を聞いているのだ。私たちは「公」の考えを嘲り自分の仲間の市民たちを軽蔑の対象としてしまっている。私たちは自分自身の利益を追求しない人は愚かだと思ってしまっているのだ。

私たちはドナルド・トランプについて批判したくとも何も批判することはできない、ローマ帝国の退廃の時代、あるいはフランスのルイ十六世の時代、ハプスブルク家の最後の時代はロベルト・ムージルの著書「特性のない男」に退廃が支配層から被支配層へ滑り落ちてゆく様が鮮やかに描き出されている。しかし民主主義の時代にはそうした経緯は相互に作用する。退廃的なエリートたちは堕落した行動をとることを許され、低俗な市民が最悪の指導者を選ぶ。私たちが選んだ暴君ネロは私たちの最悪の特性に付け込み、私たちはそのことで彼に報いることになる。

「退廃」とは文化、道徳、精神の無秩序を端的に表している、それは私たちの中にいるドナルド・トランプだ。アメリカの政治的論説の中に文明的な堕落の言葉を最初に導入するのはもちろん正しいことである。四半世紀前、パトリック・ブキャナンは共和党全国大会で両党が「アメリカの魂のための…宗教戦争」を戦っているのだと吠えた。元下院議長のニュート・ギングリッチ(共和党)は民主党を「多文化的虚無的快楽主義」で一般のアメリカ人の価値を下げる堕落と不条理だと批判した。こうした批判の言説は共和党の言葉そのものになった。今日ではアメリカの文明をを脅かしているのはローマ帝国の虚無的快楽主義ではなくギングリッチと彼の仲間たちによって解き放たれた言霊のようなものだ。

2016年の共和党予備選挙では、比較的穏やかに発言をしていたジェブ・ブッシュとマルコ・ラビオは早々に脱落し、徹底して卑劣なテッド・クルーズが徹底して冷笑的なドナルド・トランプと闘うことになった。トランプの冷笑主義、利己主義、怒気といったもののこの1年の価値は彼の支持者の欲求を刺激したことだった。先週この国はアラバマ州の上院議員選挙で民主党候補ダグ・ジョーンズを当選させることで一矢を報いた。しかしアラバマ州の教会員たちはこの民主党の候補ではなく人種差別主義者で小児性愛者である人物を選ぶべく完璧な準備をしていた。共和党の候補者ロイ・ムーアは実質的に非人間化している人々の憎しみを統制することによって危うく上院議員になりかけたのだった。

トランプは大衆的侮慢(ぶまん)の文化の図々しい象徴として機能している。もちろん彼は外国人嫌悪と人種差別的憎悪の言葉を正当化させることもしているが、同時に利己主義的な言説を正当化してしまった。トランプは選挙運動期間中に2012年にミット・ロムニーがしたように公共財の面での金儲けの経緯を説明することすらしようとしなかった。そしてテキサス州で税金を支払うことを避けるための仕組みを自慢していたのだった。彼は負債を積み重ね、アトランティック・シティで作り上げた廃墟から逃げ出すことになった。しかしそれも彼にとって素晴らしい取引だったのだ!民主党全国大会では当時の副大統領ジョー・バイデンがおそらく彼が育ってきて聞いた中で、最も恐ろしい言葉「You're fired.」を聴衆に思い出させていた。バイデンはそれで痛打を与えたと考えていたのかもしれない。しかしその後、アメリカ人は悪魔のように微笑んでその言葉を発する人物を当選させた。有権者は彼の残虐さと隠さない強欲さが強固な決断力の現れであると見たのだった。

おそらく私たちは「私たち」という言葉の妥当性の減退に民主主義の退廃を見ることができる。結局のところ民主的な政治の前提というのは、多数派が選ぶと同時に集団の利益の名の下に成されるものである。半世紀前、市民の権利意識が高まっていった時代、リンドン・ジョンソン大統領の「偉大な社会」構想の時代には、民主的な多数派は自分たちではなく追い詰められた少数者に多くの予算を費やすことを認めていたのだった。こうした態度は今日から見ると騎士道精神のようなものに見える。現在の私たちの指導者たちは国家全体に利益をもたらすために、政治的に有力な階層を傷つけるかもしれないような税制政策を採る勇気があるだろうか?

実際、現在(2017年12月)大統領が署名しようとしている税制法が今の政治の退廃性についての純粋な例に他ならない。もちろんこの法律は金持ちにとっては良いものだろう。共和党の供給者重視主義では投資家階層への減税が経済成長を促すと主張されている。現在の情勢がロナルド・レーガンやジョージ・W・ブッシュの時の状況と異なっているのは、第一に、最低代替税の廃止と不動産収入についての新たな「パススルー」規制によって露骨に大統領自身が利益を得ることになるということ。私たちアメリカ人は公務員の公益への献身を台無しにするような暗示に気づくことができないほどに麻痺してしまっているのだ。

第二に、国税と地方税の控除を廃止したり大幅に削減することで共和党の有権者を援助し民主党支持者を傷つけることが税制の目的にされている。私はロナルド・レーガンに投票したことはなかったが、それでも彼が税制政策で選挙上の支持者に報いて反対者に報復するというのは想像することができない。彼ならそんなことは下品で非愛国的なことだと考えただろう。この新しい減税法案は経済的に党利党略を構成すると言って良いものだ。どんな政党も駆け引きはするものなのは間違いない、しかし今日の共和党は憲法で保証された「一人一票」の原則を危険に晒すような極端な選挙対策を持ち込んでいる。共和党の内部では民主党支持の有権者から選挙権を剥奪するようなことが何の汚名を被ることにもならない。つまり民主党員は「私たち」から外されてしまっているのである。

最後に、この減税は現実から故意に目を背けるものだ。同様のことは1981年のレーガン減税でもあったことだ、この時は共和民主両党が予算削減を躊躇し予想通り未曾有の赤字を作り出した。しかしこの時はホワイトハウスと議会の関係者全員が必死になって予算削減を訴えたのだった。彼らは自分たちの希望は別にして客観的な現実を受け入れた。しかし2017年は、議会予算局と他の中立的権威がこの減税では予算を満たすことができないと結論づけたものの、ホワイトハウスと議会の指導者たちは予測が暗すぎるとして退けてしまった。

本当の意味で私たちは何か新しい時代に突入している。私たちは市民全体として富を分かち合う感覚だけでなく、事実を共有すること若しくは真実に向かって論理的に考える能力も失ってしまっている。私たちが真実であって欲しいと思うものは真実であり、私たちが真実であって欲しくないと思うものは真実ではないことにしてしまっている。地球温暖化は虚偽であり、バラク・オバマはアフリカ生まれだという。減税が予算に与える影響にについての中立的な予測は間違っている、なぜ間違っているかと言えばそれは悪い予測だから、ということになる。

もちろん事実を煙に巻いた中から未来の偉大さと繁栄の証明を見つけ出すのが我々の大統領である。受け入れ難い真実を過小評価し「嘘ニュース」だと騒ぎ立てることでドナルド・トランプはアメリカの文化に大統領としての在職期間以上の影響を与え続けている。彼は認知することにも党利党略を持ち込んでしまった。あなたの話と私の話が対立している時、多くの人が賛成してくれているので私の方が真実であるというのだ。トランプはこのことで国家的に無秩序の症状を引き起こしている。ワシントン・ポスト紙は最近、左派的だと見做されている疾病対策センターの関係者が「科学に基いて」という言葉を使うなという指示を受けたと報じている。しかしニューヨーク・タイムズ紙の報道によるとその指示はホワイトハウスから来たものではなく、その言葉によって攻撃されることで議会が疾病対策センターに対する助成案を拒否することを心配した関係者から来たものだという。私たちの国の二大政党のうちの一つとその支持者たちは今や「科学的」という言葉が攻撃的な言葉だと考えているようだ。私たちのロベルト・ムージルにあたる人、非情に風刺をして道徳を貫く人はどこにいるのか。今私たちは彼を(彼女を)必要としている。

民主主義社会は政治が道徳的かつ知性的に腐敗すると同時に衰退していくものであり、この場合の政治には基本的には司法も含まれる。私たちが相互理解についての尊重を喪失していることは政治的権利や政治問題に限られたことではない。私たちはハーヴェイ・ワインスタインの際限なく広がるセクハラ事件について考える必要がある。この話は私たちに極悪非道な個人の存在を知らしめただけではなく、教育を受け、高給を受け取り、高く評価されていた大の大人たちがこの怪物をを心地よい状態に守り続けていた世界を私たちに突きつけてたのだ。彼の弁護士の1人は「迅速に解決してしまえば、全ての事実について切り込まれることはないだろう」と語っていたという。

もちろんこれが弁護士の仕事であって、それは会計士がタックス・ヘイブンに企業の利益を移転するのを手伝うことと同じことだ。しかし新しくて独特なのはこの話の中で公益に対しての軽蔑があり、謝罪や恥を知る感覚が欠如していることだ。セオドア・ルーズベルトが当時の独占企業の支配者たちを「巨富の悪人たち」と呼んだ時、この形容は当時の人々に突き刺さった。今日では2008年に国家経済を破滅に導いた銀行家や仲買人、投資ファンド関係者はその責任を問われた時に怒りを露わにする。どんな形でも「金儲け」することに悪びれる部分は全くないということだ。ドナルド・トランプが無反省の強欲さになんの政治的対価も支払っていないということを多くの有権者が受け入れているのだ。

市場崇拝とそれによる公徳に対する利己主義の高まりは自由主義者としての権利と関連した基本的な教義にあたるものである。しかし、同時にそうした考え方は政治的に影響力を持った金持ちたちに自己正当化の論理を与えている、おそらくこれから金持ちになることを夢見ている人たちにも。

退廃とは通常不可逆な状態、崩壊する前の最後の段階として理解されている。ムガル帝国で最後に全権を握っていたムハンマド・シャーの宮廷はペルシャ軍が赤い城に迫っている最中も音楽と踊りで満たされていて帝国の権威を失った。アメリカの退廃が際立ってくることがあるなら、アメリカの命運も同様になるかもしれない。中国がアメリカに取って代わって世界最大の勢力となると星占いに出ているとしても、他の例に倣うことができる。例えば英国は民主主義国家として終末的な退廃に陥ること無く世界の支配者として役割を明け渡した。

アメリカは一度握った覇権を手放した過去の国々の中から禁欲的な例に倣うことができるだろうか?それは私には疑問に思える。イギリスには皮肉なほどの天性のリアリズムがある。ステージから去る瞬間が来た時、彼らはちょっと恥ずかしげに肩を竦めて出ていった。もちろんそれはアメリカのやり方とは違うものだ。ステージマネージャーが私たちを舞台袖に呼び寄せようとすると、私たちはそれぞれが攻撃するための誰かを探そうとする、移民の人たち、イスラム教徒の人たち、とにかく自分たち以外の誰かである。私たちは受け入れ難い現実を前にした時、イランのシャーに惑わされた廷臣たちのように悪性の幻想に入り込もうとするのだ。

しかし私たちは民主主義国家である、私達自身を定義づける価値観や精神習慣は指導者たちから市民に降りてくるのと同時に市民から指導者たちに上がっていくものでもある、それ故にこの経過は食い止められないものにはならない。上院にロイ・ムーアを送り込むことは多くの保守的な共和党員にとって自己反省を迫る痛ましい行為だったのだろう。性的虐待事件が次々と明らかになっていることは、自己認識を改める機会を私たちに提供してくれるだろう。少なくとも、私たちは生活の中のほとんどすべてを支配している過度にヒステリックな反応を止めることを求められている。

私たちの国の政治エリートたちに私たちが支配されている限りは、彼らは私たちの最悪の衝動を満たし続けようとするだろう。ドナルド・トランプが火をつけて燃やしている、私たちの間の政治的、道義的、認知的な相互理解を取り戻すことが私たちが取るべき道である。中国に何かを譲ることが最悪の事態なのではない、私たちが私たち自身を見失うことが最悪の事態なのだ。

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