2018年1月19日金曜日

バルサの創設者でありフットボール界の先駆者ジョアン・ガンペール


FCバルセロナとFCチューリヒを創立したスイスの夢想家は月曜日にバルセロナ、ラバルのロメア劇場で公開されたドキュメンタリー映画の主題になった


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Juan JiménezJuan Jiménez
Update: 16 January 2018 18:52h CET

FCバルセロナの歴代のサポーターの人たちや、あるいはジョアン・ガンペールのひ孫にあたるエマにとっても禁忌であった主題が取り上げられた。FCバルセロナの創立の父についてのドキュメンタリー映画が月曜日にロメア劇場で初日を迎えた。

ガンペールの死は公式に1930年7月30日となっている、アメリカとそして世界に広がった世界恐慌の深まりの最中であった。ガンペールはアマチュアスポーツ選手として素晴らしいキャリアを過ごした後には、ビジネスマンであり会計士でありジャーナリストであった。彼は結果的に現実にならなかった経済の転換が起こると確信して、ウォールストリートに自身の人生を賭けた多大な投資をしていたのだった。

このドキュメンタリー「Gamper, L'Inventor del Barça(ガンペール、バルサの発明者)」はカタルーニャのプロデューサー、ライター、ディレクターであるジョルディ・フェレロンスによって制作され、公開の冒頭にはFCバルセロナの会長であるジョセップ・マリア・バルトメウも参加し、エルネスト・バルベルデ監督、スポーツディレクターのロベルト・フェルナンデス、元監督のカルレス・レシャックなどガンペールの家族と共に多くの有名人が姿を見せた。



フットボール界の先駆者としてのガンペール


フェレロンスの映画はガンペールについてスイスの出身でFCバルセロナの創設者でFCチューリヒの共同創設者であるというよく知られたこととは別なあまり知られていない事実が中心になっている。1899年にクラブが創設されてからガンペールは「30年間バルセロナの魂だった」というようなことはおそらくあまり取り上げられていない。伝説的なゴールキーパーだったリカルド・ザモラをエスパニョールに放出した後、ガンペールは自身の意に沿わない選手のプロ化の潮流に逆らってチームを運営しようとしていたが、1922年チームが本拠地を最初のカンプ・デ・ラ・インドストリアからカンプ・デ・レス・コルツに移転する時にはチームのプロ化は避けられないものになっていた。ガンペールが会長として4期目のことであった。

ガンペールはアマチュアとしての選手時代、完成されたスポーツ選手であった。800m走と1600m走のスイス記録保持者であり、ラグビーのピッチやテニスコートでも活躍しサイクリストでもあった。フットボール選手としてはFCチューリヒでは初代のキャプテンとしてスイスの他の新興チームを相手に数試合をプレーしている、それはバルサの創成期に中心FWとして攻撃を牽引する前のことである。


有名なえんじと青のユニフォームの誕生


ガンペールはまたスペインサッカー界に今日まで続いている歴史的な色の決定の責任者である。バルセロナを作った時、彼はチューリヒと同じ白のストライプではなく、彼がスイスでプレーしていたもう1つのクラブであるFCバーゼルのえんじと青のユニフォームを採用したのだった。

バルセロナにやってきた時、ガンペールは彼の生まれながらの名前、ハンス・マックス・ガンペール=ヘッシヒ、であったが、カタルーニャの文化を受け入れるために素早く現地風の名前を冠したのだった。「ガンペールは民主的なスポーツ組織のありかたを目指していました、彼はカタルーニャの独自性とスポーツそして本拠となる都市の重要性を理解していました」とバルセロナのバルトメウ現会長は上映時に語っている。


地域の緊迫とスポーツへの影響


この映画「Gamper, L'Inventor del Barça」では1925年7月14日の出来事を伝えている。この日、バルサとジュピター・イン・オマージュ・トゥ・ザ・オルフェオ・カターラとのフレンドリーマッチが組まれた。この相手チームはバルセロナで1891年に合唱隊が設立したものだった。この試合にはバルセロナの港に停泊していたイギリス海軍地中海艦隊のメンバーが招待されいた。試合に先立って、英国とスペインの国歌が演奏されたが、後者の演奏中に一部の観客からヤジの声が上がった。当時のバルセロナの知事、ジョアキン・ミランズ・デル・ボッシュはスペインの独裁者ミゲル・プリモ・デ・リヴェラにこの件を報告し、FCバルセロナは6ヶ月の活動停止処分を課されることになる。

当時の文書記録によるとガンペールは政治的圧力に疲れ果ててバルセロナを離れる決意をしたという。そして数年後彼はバルセロナの近くジローナの彼の家に戻り、ニューヨークから大西洋を超えて吹き荒れる恐慌の風について運の悪さを悔いていたのだった。

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