2018年6月3日日曜日

ラホイとカタルーニャの面倒な関係


スペインの首相を退陣したマリアノ・ラホイはカタルーニャの独立運動を押し潰すために例外的な措置を講じてきた


Catalan News
1 June 2018

金曜日、汚職スキャンダルをきっかけにした不信任決議案を経て、マリアノ・ラホイはスペインの首相の座から退いた。カタルーニャ州の独立派の政党はラホイの統治を終了させ、社会党の党首ペドロ・サンチェスがその地位につくために一役買っている。共通の政敵によって可能になっただけの協力体制ではないだろう。

2011年に権力を握ってから、ラホイは、カタルーニャの独立に向けての運動の始まりから、昨年10月の独立への住民投票と独立宣言へと続く運動の高まりまでを通じて、スペイン側で対応した中心人物であった。この対応でスペインを過去数十年で最悪の政治危機に陥らせた。

カタルーニャが独立宣言へ至ったことは、ラホイの首相としての存在とは切り離せない。2012年、経済危機の最中、当時のカタルーニャ首相、アルトゥル・マスはラホイに対して財務上のより有利な取引を求めたが、ラホイは応じなかった。マスは解散総選挙を行い、新たな要求を訴えて勝利した。それが独立を決める住民投票だった。

カタルーニャの議員の大半は住民投票を支持したが、ラホイは住民投票に関する全ての試みを阻止した。2014年、スペイン議会で採決が行われ、299票が反対に投じられ、カタルーニャの政党を含む47票だけが賛成し、住民投票の要求は否決された。

その後、独立派が指揮を執るカタルーニャ政府の首相にマスに代わってカルレス・プチデモンが就任した。プチデモンもラホイに対し住民投票の開催について交渉を行った。彼は、スペインからの独立は議論の対象にすらならない、という前任者に対したものと同様の回答を受け取った。

2014年、カタルーニャ政府は非公式な独立住民投票を行い、40%の投票率でそのうち80%がスペインからの独立を求める側に投票した。スペインはこの投票を禁止するとしていたが、具体的な対応はせずに進めさせている。

プチデモンはラホイの反対に関わらず、再度住民投票を実行すると宣言した。そして次回は拘束力を持つものであるとした、つまり、独立に「賛成」の票が多かった場合には独立が宣言されるということだった。

その頃、ラホイは2回の選挙を経てスペイン議会での絶対多数を失っていた。野党が政権の樹立に失敗する中、ラホイは、カタルーニャ独立に対しては強硬姿勢を取るリベラル政党シウタダンス(市民党)の支持を得て権力の座に留まった。

2014年の投票の時とは違い、スペイン政府は新たな住民投票の阻止を宣言していた。ラホイは数千人の警察官をカタルーニャに派遣し、司法上違法とされる住民投票の準備を中止させようとした。

スペイン側の反対に関わらず、2017年10月1日、住民投票は実施された。カタルーニャ政府の統計によると、1000人以上の人々が投票を阻止しようとした警察官によって負傷させられ、この一件は「過度の実力行使」であるとして国際機関から批判を受けた。

43%の投票率で独立に「賛成」側が勝利したため、カタルーニャ政府は独立を宣言した。スペインが民主化してから前代未聞の事態に、ラホイはカタルーニャを直接統治するために憲法155条を発動させ、プチデモンとカタルーニャの全ての閣僚を解任し、新たな選挙を呼びかけた。この時ラホイはシウタダンスと共に社会党の支持も受けていたが、社会党は後にカタルーニャ独立派の政党と共闘してラホイを追放することになる。

裁判所が動き出して、住民投票を実施したカタルーニャ政府の指導者たちを訴追したため、ラホイは一歩引いた立場から役割を果たすことになった。今日まで、カタルーニャ独立派の指導者たちは9人がマドリードで収監され、7人が他の欧州の国に避難してその地で起訴されており、まだ最終審理は保留されている。

プチデモンは国外に避難した人のうちの1人である。彼は昨年12月に行われた選挙の時、ブリュッセルに滞在していたが、自身の地位を取り戻すために十分な議席を確保した。ラホイが率いる国民党のカタルーニャ支部は、最近数十年の中で最悪の結果で、4人の議員しか送り込めず、カタルーニャ議会で最小の政党となってしまった。

しかし、スペインの裁判所はプチデモン再任の動きを阻止し、それに続いて、独立運動に於ける役割で訴追されていた他の候補者たちも拒否した。その間ラホイはカタルーニャ政府を支配下に置いていた。

カタルーニャの独立派政党は最終的にキム・トーラを首相として擁立した。彼はラホイによって罷免され投獄されたか国外に脱出した閣僚たちを再任しようとしたが、スペインの首相はカタルーニャに対する支配権を行使しこの試みを阻止した。

政治的な行き詰まりを解消するために、トーラは元の閣僚を任命するという公約を諦め、新たな閣僚候補を指名した。ラホイはカタルーニャの新閣僚に青信号を出し、土曜日に新政権が樹立されることを正式に承認した。これはラホイにとって、スペインの首相として下した最後の決定の一つとなった。


どこから始まったのか


アルトゥール・マスがカタルーニャの政治家として新たな国家の樹立を呼びかけた時、独立運動はその時点で既に草の根レベルでは広まっていた。マドリードでの会談の直前、バルセロナの街は明確な標語を掲げたデモで埋め尽くされた:「欧州の新しい国家、カタルーニャ」。その後何度も続く明確に独立を掲げた集会の最初の始まりだった。

2010年にはカタルーニャの首都で再度大規模なデモがあり、独立運動の始まりへの道を開いた。カタルーニャの政党によって支持された新しい自治法案を廃案にするという、スペイン憲法裁判所の決定に抗議する人々が集まったのだった。

スペイン国民党はこの地方のマグナ・カルタとも言えるものを裁判所に持ち込んで司法問題化し、スペイン全土に対し自治法案に反対するキャンペーンを実施した。当時野党の国民党は既にマリアノ・ラホイによって率いられていたのだった。

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