2018年9月19日水曜日

古き良き時代の Twitter に戻ることはできない


ツイッターは時系列のタイムラインへ回帰しているが、かつての魔法を取り戻すには十分ではないだろう


The Atlantic
ALEXIS C. MADRIGAL
SEP 18, 2018

ツイッターはかつての逆時系列(新しいツイートが一番上に来る)のタイムラインに回帰している。初期設定になるわけではないようだが、CEO のジャック・ドーシーは設定を変えることで以前のシンプルな方法に戻すことができるとアナウンスした。設定の「重要な新着ツイートをトップに表示」というところからチェックを外せば、アルゴリズムで作られた4時間前のツイートが10秒前のツイートと一緒に一番上に貼り付いているタイムラインから脱出して、新しいツイートが一番上に来る昔のリズムを取り戻すことができる。


この逆時系列の理論は、私たちが Web 2.0 と呼んでいたものだ。当時はなんでも逆時系列になっていた(Wikipedia 以外は)。ブログもツイッターも逆時系列だった。新しいものが一番上に来るというのはニュースを伝える意味では論理的だ。しかしそれだけでなく、ツイッターの逆時系列にはみんながリアルタイムで一緒になれるという意味があった。エミー賞の授賞式、大きな試合の中継、世界的な事件、ハリケーンの襲来、議会の公聴会などをみんなで見ることが出来た。

これこそがそもそものツイッターの売りだった。ウェブに「場所」を提供した。「インターネット」とは何処で起こっているのか?これがその「場所」で、人々みんなが一緒に時間経過の中にいる場所だった。集まった全ての人が話し合い、一斉に「インターネットの反応」のようなものを感じることができるものだった。

しかしこれは神話の世界の話だった。それぞれがどう感じていたかは別にして、そんなことは起こっていなかったのだ。ツイッターはある国家の視点や興味を代表しているものではないことが何度も繰り返し明らかにされている(ましてや世界など尚更だ)。

だが、昔は違っていたということに多くの人たちはそのことに同意しているようだ。それはおそらく同じ時間に無作為に投稿されたツイートがごちゃ混ぜになったもののことだ。

ツイッターは常にハイ・モダニズム小説のような視点を持っていた。あなたが箱の中を凝視しているとその中では、誰かがお茶を飲んでいる、あなたが前から知っておくべきだった戦争がまだ続いている、4才児を連れた両親、プロパブリカの最新調査結果、バカげたスクリーンショット、警察官に殺された黒人の動画、クイズノスの広告、そしてドナルド・トランプが見たテレビ番組について呟いている。この情報の積み重ねには文脈がなく、トラウマ的で、奇妙だがエネルギーには溢れている。都市が人の歩く速さを早くする原因と似ている。そして歩く速さではなく、気持ちの中で同じことが起こったのだった。

しかしツイッターのアルゴリズムは徐々に「最も人気のツイート」を選んで見せてくるようになる。スマートフォンで親指をプルダウンするたびに次々に異なる(定量的に証明された)感情的な刺激を与えられることになった。あなたの脳は自動演奏されるピアノであり、それがフィードの中の楽譜に反応して奏でられる。こうした機械を意図して作ろうとしたわけではないだろうが、結果的にはそうなり、これには地獄のような中毒性があった。

同時にツイッターで人々が言うことが現実世界に影響を与えるようになった。実在の歴史家たちが南北戦争時代の南軍、アメリカ連合国についてのツイッター上の人々の妄想を大幅に正すことになった。人々はツイッターのために雇われ解雇された。革新的な会社の経営者がツイッターで奇妙なことを言えば、その会社の株価が急落した。そしてもちろん、大統領がツイッターを使って何かをするようになった。

ツイッターというプラットフォームは私たちから不思議に感情的な言葉を搾り取る。そして現在、人々がこのプラットフォームで何かを言うかするかしたことはこれまで以上に現実世界に結果を招くようになっている。

逆時系列でこのプラットフォームの発展を巻き戻すことはできないし、ツイッターの外に広がってあらゆるものが神経質になった世界を変えることはできない。しかし、もしかすると逆時系列はほんの少しだけツイッターを現在の状態から引き離して、シンプルだった時代に戻してくれるかもしれない。ツイッターは主要メディアが無視する重要な話題を必要以上に感情的にならずに明るみに出すことができる場所にまだなれるかもしれない。ツイッターはまるで戦場のようになった感じを薄めて、もっと健全でお互いを尊重した会話のできる場所になれるかもしれない。少しずつでも良い方に変わっていけるだろうか?

だがおそらくそれは無理だ。

この数年間、私はツイッターをツイッターでないものにする努力をしてきた。利用を制限して通知機能を切りリツイートも切り、Nuzzel のようなツールを使ってツイートからのリンクを分類して私がフォローするアカウントを選別して多様化させた。

他の人たちは、全員からフォローを外したり、広範囲にミュートしたり、アカウントを消滅させたり、マストドン(か他の何か)に乗り換えたり、あるいは単にスクロールしながら面白いものを待っていたりしている。

結局こんな努力もこのプラットフォームそのものには何もならないのだ。かつての大好きだったエデンの園のようなTwitterに戻ることはない。私を新しい世界の社会に導き、私の注意を重要な不正行為に引きつけ、キャサリン・シュルツが「友人を伴った文章」と呼んだものに戻ることはないのだ。

ツイッターはまるでニューヨークのようになった。みんなが愛し、みんなが嫌う、離れることができない、人をクレイジーにする、くよくよさせられる、そして離れていく。ツイッターにはその全てがある。全てのメディアがそこにあるので、ツイッターにいる人々は誰もがメディアの一部になっている。あなたはそこから離れる時、その幸福感、喪失感、残る人たちへの優越感、その妥当性の収縮が幻肢のような痛みを伴うこと、こうしたについてエッセイを執筆することになる。

そしておそらく、あなたは戻ってくる。恥ずかしながらも再インストールしてどれだけの人があなたがいなくなったことについて話しているかを見るために。しかしみんなはあなたが離れて4分後には忘れてしまっているのだ。

私個人は時間が経つに連れて、特定の話題、ジョーク、情報、言い争いの勝ち負けについての問題は無くなってきている。このことは私を悩ませている。これは MIT の科学者ナターシャ・ダウ・シュルが書いた「設計された中毒:ラズベガスのマシーンギャンブル」という本の一節を思い出すからだ。この本で、彼女はスロットマシーンを止められなくなったギャンブラーの女性に話を聞き、この女性は勝ち負けは気にしなくなったと答える。「ではなぜプレーを続けているのだろう?」とシュルは書いている「プレーを続けるのは、他に何の問題もないマシーンゾーンにとどまるためだ」

名目上、私がツイッターを利用し続けているのは、知ってもらうため、有用かもしれない情報を得るため、異なる視点からものを見るためである。これらは全て起こっていることだ。

しかし、感情的には、私がツイッターにいるのはそれがツイッターだからだ。過去10年間に私に起こったことは逆時系列にするだけで反対にすることはできない。実生活ではタイムラインをそう簡単に遡ることはできないのだ。

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