2018年2月19日月曜日

ハカン・シュキュル – 故国に帰ることのできないトルコの英雄


ワールドカップの最短時間ゴール記録を持つ彼は、かつてはトルコ大統領を結婚式のゲストに迎えたが、現在はアメリカで逃亡生活を余儀なくされている。


The Guardian
Bob Lewis
Sun 18 Feb 2018

UEFAカップの優勝経験者でワールドカップの準決勝でもプレーしたトルコで最も偉大なフットボール選手の1人の結婚式で撮られた有名な写真がある。この写真には主役であるハカン・シュキュルの隣に2人の立会人が写っている、トルコの大統領であるレジェップ・タイイップ・エルドアンとイスラム聖職者のフェトフッラー・ギュレンである。結婚式というものは人生で最も輝かしい日の1つと思われいてるが、シュキュルの場合はそうはならなかった。

この日彼が結婚した女性は亡くなっている。シュキュルの父親は収監されており、トルコ代表で112のキャップを持つ彼自身は逃亡の身である。彼が生まれ故郷の地に戻ることがあれば、大統領に対する侮辱と政府に対する反逆の罪に直面することになる。獄中生活はもとより死刑判決を受ける可能性すらある。彼は二度と父親に会うことはなく、彼が受けてきた賞賛は全て失われてしまった。シュキュルは彼の故国を失ったのである。

引退後に権威を失墜したフットボーラーは他にもいるが、シュキュルほど高みもどん底も経験した人はいないだろう。彼は寝ても覚めてもフットボール好きな国のレジェンドであった。彼は全てを持っていた、ガラタサライとトルコ代表チームの最多ゴール記録保持者であり、ライバルチームのフェネルバフチェやベジクタシュのファンですら彼には敬意を払っていた。2002-03シーズンにはイングランドのブラックバーン・ローバーズで9試合プレーし2ゴールを記録している。2002年のワールドカップではホスト国だった韓国を相手にした3位決定戦で試合開始から10.8秒でゴールを決め、ワールドカップの最短時間ゴール記録保持者となったのだった。

36歳で引退した後、彼は評論家として活動しながら政治の道へ入っていった。シュキュルは現在の与党である聖職者主義の保守政党AKP選出の議員となった。そして突然結婚式の写真が注目されることになった、彼が成し遂げてきたものは無に帰してしまったのだった。

彼の結婚は離婚に終わっている。彼の元妻エスラは1999年にイズミットとイスタンブールで少なくとも17000人の命を奪ったとされる地震で亡くなっている。シュキュルは国営放送局TRTで評論家として活動していたときには、知識が豊富で、真面目で、常に鋭く興味深い話をしていた。彼は再婚し3人の子供をもうけた。彼の政治に対する意欲の高まりはエルドアンの政党である公正発展党の議員となることに行き着いた。しかし彼はその時もギュレンとの親しい繋がりを維持していた。ギュレンは結婚式の写真に写っていたもう一人の人物である。

ギュレンはペンシルバニア在住だがトルコをよりイスラム色の強い国家にするためにトルコに戻ることを切望していると言われる謎に包まれた人物である。2013年にトルコ政府がギュレン運動の信奉者たちが運営する学校の閉鎖を決定した(彼らは世界中に学校のネットワークを広げている)時に、シュキュルは党を離れ無所属の独立した議員になった。フットボールは遠い過去のことになり、彼の受難はこの時に始まったのだった。

彼はその頃既に大学で聴講生に向かって「私はアルバニア人であってトルコ人ではない」というような発言をして物議を醸していた。「アルバニア人」や「クルド人」という言葉はそれ自体が支配的な国家主義に相反する言葉として見られる可能性があるこの国では、極めて危険な言動であった。

2016年にシュキュルはソーシャルメディアで大統領を侮辱したとして訴追された。彼は6月に欠席のまま裁判にかけられ、大統領を標的にした意図はなかったと主張したが、検察はシュキュルのツイートは明らかに大統領に関係したものだと述べた。

そして7月にギュレン運動の支持者たちが起こしたとされるクーデターが失敗に終わる。欧州で最も人口の多い都市の真ん中で銃撃音が聞こえる事態となり、300人以上が死亡した。その月には12万人が職を失い、5万人が逮捕された。ギュレンに同調する者は誰でも疑いをかけられたのだった。8月にシュキュルに対して逮捕状が発行された。国営アナドル通信社は、サカリヤ県の検察官が彼をアンカラの政府がフェツラ・テラー・オーガニゼーションと呼ぶ武装テロ組織のメンバーであるとして逮捕したと伝えた。

シュキュルはギュレンと断交すれば自由と安全を保証するという機会を得たがそれを断った。シュキュルの父セルメトはアダパザルのモスクで捕らえられた。彼らはクーデターを財政的に支えたとして逮捕され財産は没収された。シュキュルはなんとかアメリカに逃れた。そしてこの6月、彼の父は自由を取り戻すこと無くガンで亡くなったと伝えられている。

シュキュルは現在も輝かしいフットボールキャリアの記念品に囲まれて亡命したままだ。現役時代、海外でプレーしていた時にはしきりにトルコを恋しがっていた繊細な彼は、一度はスタジアムや路上でも轟いた彼の名声が母国で色を失っていくのを眺めている。

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