2018年2月16日金曜日

50年前スバルのアメリカ市場進出は失敗寸前だった


マルコム・ブリックリンとハーヴェイ・ラムは富士重工の小さなクルマがアメリカで売れると確信していたが、あまり上手くはいかなかった。


Road and Track
CHRIS PERKINS
FEB 16, 2018

スバル・オブ・アメリカが設立されてから今日で50年になる。その最初の車の物語には少々奇跡めいたところがある。スバルがAWDでボクサーエンジン搭載のファミリーカーで市場の主役に躍り出る何年も前、アメリカでは売れそうもない360で市場に参入しようとしていた。アメリカでもっとも販売に成功した企業の1つとなることに繋がった惨めな失敗であった。

スバル・オブ・アメリカは1968年にスタートした、しかしこの話の始まりは日本が第二次世界大戦の傷跡から復興途中だった1949年に遡る。その年に日本の政府は「軽自動車」という車種を生み出した、国内の活性化を図るために小さな自動車の製造を奨励する規則を定めたのだった。1955年に軽自動車は最大排気量が360ccまでと規定された。その3年後富士重工はスバル360でその市場に参入する。

この360は軽自動車として始めて大量生産された車で、そして素晴らしいものだった。一体型構造をより大きなスバル1500セダンから借用して乗員4人を可能にしていた。2ストローク直列2気筒エンジンは16馬力しか発揮しなかったため、富士重工は360をルーフにファイバーグラスを用いて非常に軽いものに仕上げていた。「レディバード」という愛称をつけられた360は日本市場で成功を収め、最も人気の軽自動車になったのだった。

人口密度が高く道路の狭い日本で360は完璧な実用性を備えた車だった。しかし360を当時のアメリカの車と比較すると、アメリカ車は広大な国土を跨いだ州間幹線道路に合わせて作られていて、安い燃料費もあって巨大な6または8気筒のエンジンを搭載したものだった。

360はアメリカでは売れないだろうという印象が持たれていたが、アメリカの投資家マルコム・ブリックリンは違った。彼は1960年代にガルウイングのSV-1というスポーツカーを作り出し、後にユーゴスラビアの車Yugoをアメリカ市場に持ち込んだ人物で、最初に富士重工に接近した時にはスクーターの販売を手がけていた。

ヘミングス誌によれば、彼は富士重工の「ラビットスクーター」に興味を持っていたのだが、その時点で富士重工は生産を終了してしまっていた。しかしブリックリンはスバル360に興味を惹かれた。重量が1000ポンド(約454kg)以下で、この重量だとアメリカで連邦に登録する必要なしに販売できた。彼は66mpg(約17km/L)という燃費効率が、この小さなレディバードが質素なアメリカ人に受け入れられる助けになるだろうと考えた。1968年ブリックリンと彼のビジネスパートナーであるハーヴェイ・ラムは小さな360の輸入販売を目的としてフィラデルフィアにスバル・オブ・アメリカを設立した。



有名な「cheap and ugly」の広告で始まった360のアメリカ市場参入は散々なものだった。360の値段は1300ドルと安価だったが、フォルクスワーゲン・ビートルは数百ドル高いだけで、この2台の間のアメリカ人の選択は明らかだった。しかし360の運命を決定づけたのは悪名高いコンシューマー・レポート誌の批評で、スバル360は「Not Acceptable(受け入れ難いもの)」というラベルを貼られてしまった。

この雑誌の批評で、この車は標準以下の安全性しかなく(連邦登録が不要なくらい軽いことを思い出して欲しい)、速度が50mph(約80km/h)に達するまで37.5秒もかかる加速性能は高速道路では信頼性に欠けると決めつけられてしまった。ブリックリンが最近になってオートモーティブ・ニュース誌に語った話では、コンシューマー・レポートによって受けた打撃を回想している。

「誰かが私に電話をかけてきて『コンシューマー・レポートを見たか?』って言うので『コンシューマー・レポートがどうかしたのか?』と。そうしたらコンシューマー・レポートに360はキャデラックに比べてクズ同然だという話で私たちのことが書かれている。その頃あの雑誌は50万部くらい発行部数がありました。私は、だからなんだ?と思いましたよ。50万人がこれを見たとしても、アメリカの人口はもっとたくさんいるだろ?と」

「しかし銀行はみんなこの記事を読んでいたし、小売業者もみんなこれを読んでいました。展示する予定も停止させられてしまったのです。それでも私には車が供給されてくるし、その支払いも迫られる。私は車代を支払うお金を持っていなかっただけでなく、補完しておくだけでもお金が必要になってしまいました」

実際にはコンシューマー・レポートの記事は360とキャデラックを比較してはいないが、ブリックリンの言う通りこの記事はスバル360の望みを断ったのだった。



この後にはバカげたことになってしまった。小売店は在庫になった360を2台で1台分の値段で売ったり、別な車を買ったら1ドルで買えることにしたなどという都市伝説も伝わっている。ブリックリンはFasTrackという名前で、誰でも360でゴーカート用サーキットのレースに1周1ドルで参加できるという商売を始めた。デューンバギーを作ったレジェンドであるブルース・マイヤーズがデザインしたファイバーグラスのボディを持つこの車はこれで殆どが破壊されてしまった。

ブリックリンがオートモーティブ・ニュースに語るところによると、この一連の出来事に日本の富士重工は狼狽していたという。彼とラムは富士重工の重役に契約の見直しを懇願した。前輪駆動でボクサーエンジン搭載の新しいFF-1を販売させてくれるように願ったのだった。最終的に富士重工はそれに応じ、スバル・オブ・アメリカは生き残ることになった。

1971年に富士重工はブリックリンとラムからアメリカ国内への輸入の権利を買い戻した。ブリックリンは1972年に会社を離れたが、ラムは1990年富士重工がスバル・オブ・アメリカを買収するときまで会社に残っていた。



スバル・オブ・アメリカは360を何年もサポートしなかったが、この車はアメリカでカルト的な人気を保ち続け、現在では希少なコレクションアイテムとして扱われている。

ブリックリンはどうやらあまり信頼できる話し手ではなさそうだが、彼のオートモーティブ・ニュースのインタビューではスバルがアメリカ市場からの撤退に如何に近づいていたかが明らかにされている。現在の大きな成功を考えればそれも好都合な始まりだったのかもしれない。


360について更に知りたい場合は、ヘミングスによる偉大な物語の記事と360のオーナーであるジョニー・エイセンの記事を御覧頂きたい。1969年のコンシューマー・レポート誌の最初の批評は360オーナーズクラブのサイトに保存されている。ブリックリンのインタビューはオートモーティブ・ニュースのスバル50周年記念特集に掲載されている。

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