2018年2月4日日曜日

殺人を犯したカラヴァッジョの作品は規制されるべきなのか?


作者の罪によって汚された作品が除去されるならば芸術関連の施設にとって受け入れられない基準を設定することになる。何が起きているのか


The Guardian
Svetlana Mintcheva
3 Feb 2018

映画業界の混乱に始まって、素行に疑問のあるキャラクターを多く持つ芸術界も影響を受けるのは間違いないだろう。

性犯罪の告発を受けて、ワシントンのナショナル・ギャラリーではアメリカで最も高名な肖像画家の1人であるチャック・クローズの展覧会を無期限に延期し、シアトル大学では「学生、教員、スタッフの反応の可能性」を恐れて彼の作品である「セルフ・ポートレイト2000」の掲示を取りやめた。

クローズのように女性を力で虐待した男性に怒りの矛先が向くのは驚くようなことではない。こうした憤怒はフランス革命前、アンシャン・レジームの時代からあったことが明らかになっている。人々は男性特権の象徴だったバスティーユ牢獄に向かって行進したのだ。しかし、卑劣な行為をした男性に対し罰を与えることを呼びかけることと彼らの作り出した芸術を毀棄するために非難することは全く別なことである。

芸術の世界には考えるのも嫌になるようなモラルの欠けた怪物が昔から沢山存在している。レニ・リーフェンシュタールはナチスを賞賛して全体主義に身を委ねた、エズラ・パウンドは悪質な反ユダヤ主義を広め、D・W・グリフィスは人種差別的な映画を作った。芸術家はしばしば彼らの妻、恋人、モデルを虐待してきた。彼らは殺され、裏切られてきた。

それでも彼らは観衆を感動させて思考を刺激し、時に美しく時に荘厳な作品を作り出してきた。悪人がすることは悪行だけではない。

2016年、ワシントンDCでは性犯罪で告発されているビル・コスビーに関係した2件の展示会について抗議運動が行われた。結局の2つの展示会は予定通り行われた。しかし2018年には状況が変わった。運動は殺伐としたものになり、中庸的なものがなくなってしまったのだ。

一歩踏みとどまってこうした追放行為が文化活動全体に与える影響についてより注意深く考えてみることは不合理なことだろうか?多くの人は、権力を濫用して虐待を続ける男性たちを引きずり下ろす革命を起こしているさなかに多義性について考える余裕はない、と答えるかもしれない。しかしそれが真実ならば、そのことは私たちに芸術は無用のものであると言っているのと同じことになる。なぜなら芸術の本質は(政治的なプロパガンダとは反対に)まさにそこにあるからだ。

芸術作品をその作者の罪によって汚されていることを理由に排除することは、芸術家に対し道徳上の潔癖さの体現者として行動することを要求する、という芸術関係の施設にとっては受け入れられない基準を設定することになる。今日の基準で道徳的に問題のある生活をしていたあらゆる芸術家の作品は、同様の問題を抱えた方法論で作られたものであると言えるだろう。そしてその基準に満たなかった場合には、それらの作品は排除される必要があるとされてしまう。

カラヴァッジョのキアロスクーロに描かれる、彼の魅力的で官能的な若いモデルに驚嘆することはなくなる。(カラヴァッジョのお気に入りのモデルは「彼自身の子、または、彼に仕えた奴隷」としてでっち上げられている。そしてカラヴァッジョはおそらく殺人の罪も犯している。)

悪名高い標語「女は苦しむ機械」に従って生きたピカソの作品を見ることはなくなる。10代のモデルを虐待した件で告発されたエゴン・シーレの苦難に満ちた表現を見ることはなくなる。ウェストミンスター寺院に彫刻を残したが、娘を虐待していたエリック・ギルの作品を見ることはなくなる。他にも多くを見ることがなくなるものがある。美術館はギャラリーよりも補完スペースの方が必要になるだろう。

この革命的な状況が進めばこれから新しくできる壁はこれまで権威のある芸術関連の施設では場所を得られなかったような人たちの仕事で埋められることになるだろう。(アメリカの若手画家ダナ・シュッツのように敢えて人種的に微妙な問題を主題としている人以外の)女性、(レイプで告発された写真家ラフバー・シン以外の)有色人種、あるいはトランスジェンダーや同性愛者の芸術家…、カラヴァッジョ以外の?

個人は行動のもたらした結果に向き合わなければならない。しかし彼らが作り出した芸術作品が彼らの悪行の卑劣さを凌駕するものであるならば、そしてそれらは多くの意味を持っているに違いないのだから、見ることができるようにしておくべきである。

政治的に分極化した時代には、私たちは複雑性を考えることができる場所として芸術関連の施設を高く評価する必要がある。その中には、なぜこのような創造的な才能に恵まれた芸術家がそんな酷い人間だったのかについて考えることも含まれるだろう。教会のように誰が救いを受け誰がそうはならないのかについて審判を下すことを義務付ける場所として扱うべきではない。


スヴェトラーナ・ミンチェワはNational Coalition Against Censorship(全国反検閲会議)の企画責任者である。

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