2018年4月15日日曜日

イスラエルにおけるジャーナリストの死と生きる権利


イスラエルはあらゆるパレスチナ人を脅威と見做している


Mariam Barghouti  
13 Apr 2018

4月7日、私たちはパレスチナのフォトジャーナリスト、ヤセル・ムルタヤが負傷して担ぎ込まれた病院で亡くなったと連絡を受けた。彼はその日ガザでイスラエルの狙撃兵に銃撃されたのだった。

この恐るべき一報はパレスチナのジャーナリストと活動家がガザの最新情報を交換するために作っているWhatsAppのグループに投稿された。

ヤセルもこのグループに参加していて、彼は殺される二日前にパレスチナ人の帰還大行進についてドキュメンタリーを撮るために働いているのだというメッセージを投稿していた。彼はそのドキュメンタリーを完成させることはなかった。妻と2歳の息子がいる家に戻ることもなかった。ニュースを伝えるはずが、彼自身がニュースになってしまった。

この一報に私たちは衝撃を受けた。彼の友人たちは彼の死を信じることができず、ヤセルに会ったことはないがジャーナリスト仲間として知っていた私たちもこのニュースを心痛をもって受け止めた。そして私たちは誰しもが安全ではないのだと実感したのだった。報道機関証明も盾も私たちを殺人者から守ることはできないのだ。

イスラエル軍が「報道」と書いたベストを着たジャーナリストを狙撃したとしても、私たちにとって驚くようなことではない。私自身この報道機関用のプレスベストを着ている時に攻撃を受け怪我をした経験がある。イスラエルにとっては彼がジャーナリストであることは問題ではなかったのだ。

パレスチナ人であることはそれだけで背中に標的を貼り付けているようなもので、それはそこに「報道」と大きな青い字で書いてあったとしても変わらない。イスラエルの国防長官アヴィグドール・リーバーマンはヤセルの死の後でイスラエルの政治家と軍組織を代表して「ガザ地区に無罪の者はいない」と述べた。

イスラエルがジャーナリストを殺して国際慣習を犯したことは注視されるべきことであるが、このことは最近起こっていることをどう見るべきかということと同じではない。

イスラエル軍はガザで平和的な手段で抗議活動をしていた人たちに対し、29人を殺し2000人以上を負傷させた。ヤセルの死は他の28人の死よりも突出して凶悪な犯罪というわけではない。彼は他の28人と同じようにパレスチナ人であるがために殺されたのだ。

イスラエルにとって国際法によるジャーナリストの安全保護と報道の自由は基本的人権と同じ価値のようだ、つまるところ両方とも意味がないのだ。そもそもイスラエルは国際協定に違反して建国されている。このことが、私たちがヤセルの死をジャーナリズムの範疇の外に置いて、全てのパレスチナ人が置かれている現実という文脈の中で見なければならない理由となっている。

もちろん、ヤセルの殺害はイスラエルがジャーナリストの権利をまたしても無視したことを示している。しかし、ジャーナリストであるかどうかにかかわらず、イスラエルが国家としてパレスチナ人の権利を犯していることがより重要なことである。

イスラエル兵は単にヤセルの報道陣用ベストを無視したというだけではなく、ガザから来た若いパレスチナ人としての彼の命の価値を無視したのだ。

私たちパレスチナ人はそこにいるだけでイスラエルの更に大規模な植民計画の障害になっている。このことが彼らの目には私たちの誰もが「無罪」ではなく映ることを意味している。私たちはただ存在することによって、彼らの国に脅威を与えている。

私たちが侵略者に無慈悲に殺された時、私たちは常にもう一つの死に直面する。主要メディアによって存在を殺されることになるのだ。ヤセルはジャーナリストであることでほんの少しの時間注目された、しかし他の犠牲者たちは名前も顔も無いままである。ヤセルの死は一時的に論争を引き起こすことができたが、もし彼が報道陣用のベストを着ていなかったら彼の名前や人生がどこで語られただろうか?

私たちパレスチナ人は毎日権利を侵害され続けている。ヤセルが標的にされたことはイスラエルの巨大な占領の症状の一部であり、特別なことではない。

しかし、パレスチナ人が生命と尊厳の権利のために抗議運動をする時、主要メディアは常に占領とアパルトヘイトがその背景にあることを無視している。殆どの場合、尊厳と正義に対する私たちの訴えは地域の「不安定」の一部としての話であることが示唆されていて、この不安定と緊張関係が、私たちの土地を奪い、私たちが流した血の上に成り立つイスラエルの入植計画によって引き起こされたものであることを意識させることはまずあり得ない。

パレスチナ人が石を投げてタイヤに火をつける時、私たちがそれより他に占領軍の武力に挑戦する方法を持たないことも、タイヤが燃える煙で狙撃兵からなんとかして身を隠そうとしていることもメディアは伝えてくれないだろう。その代わりに私たちのこうした行為が「暴動」であり「暴力的」であることを示唆するのである。

この紛争は対等な二極が争っているかのように常に示唆されていて、更に悪いことに、一方が「文明的」な作戦行為で、もう一方は単に野蛮であるかのように伝えられている。

こうしたメディアの支持を受けて、イスラエル軍の報道官はガザでの殺害行為の後、気持ちよさそうに次のようにツイートした。「制御できていないものはありません。全て正確に計算通りであり、我々は全ての銃弾がどこに着弾するか把握しています」

これはイスラエル軍が自分たちのしていることに気づいているということだけでなく、相手がヤセルのようなジャーナリストであっても、16歳のアラア・ザムリや14歳のフセイン・マディのような子供であっても、意識して積極的にパレスチナ人を狙撃していることを意味している。

悲劇的なことだが、ヤセルが殺されたことはパレスチナ人にとっては日常の出来事だ。私たちが路上で抗議運動をしていても、石を投げつけても、ジャーナリストとしてイスラエルの行為に重大な不正義があることをドキュメンタリーに纏めようとしていても、私たちはそのために殺され、投獄され、傷つけられ、検問で拘束され、家は破壊され、子供は牢獄で虐待される。

イスラエルは自らを「中東で唯一の民主主義国家」として売り込もうとしているようだが、実体はパレスチナ人の民主的な権利を喜々として踏み躙っている。そして今日、ガザに何千人ものパレスチナ人たちが集まり、民主主義のあるべき形で武器を持たずに抗議の権利を行使しようとしてイスラエル軍の銃弾を浴びたのだ。

ヤせルは他の犠牲者たちと同じように、死ぬべき人ではなかった。彼の殺害は、他の殺された人たちと同じように何十年も国際法に違反してきた占領者によって犯された罪である。彼らは全て私たちの怒りと非難を受けるに値するはずだ。

この記事に示された見解は筆者個人のものであり必ずしもアル・ジャジーラの編集方針を反映したものではない。

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