2018年4月12日木曜日

マーク・ザッカーバーグの腹立たしい無邪気さ


世界中の人々を繋ぎたいという夢はこれまでにない孤立という結果をもたらした。これについて私たちがマーク・ザッカーバーグを責めるのは、自分を責めることにとても耐えられないからだ。


Stephen Marche
April 10, 2018

マーク・ザッカーバーグは成人してから謝ることばかりしてきたが、それを受けて改善することはあまりしてこなかった。彼がハーバード大学のイントラネットから顔写真を掻き集めて始めたFacemashは、美女コンテストサイトとして一気に広まった。彼はそれは本意ではなかったのだと説明し、再び同じことは起こさないし、技術的な理想は純粋なままだと納得させるために前進し続けてきた。

タイムズ紙によると、ザッカーバーグはケンブリッジ・アナリティカ事件を説明するために上院議会に出席するにあたり、「謙虚さと愛想の集中講義」のために専門家チームを雇ったのだという。現代に最大のコミュニケーションの手段を作り出した人物が、最も基本的な広報活動も管理できないということはこの10年で最大の皮肉と言えるだろう。ソーシャルメディア上の「Fake Mark Zuckerberg Facebook Post meme」というページは、ザッカーバーグは人間のふりをしているだけで、本当はロボットかトカゲ型の宇宙人か何かなのだという考えを基にしている。実際、彼は何をしていても非人間的な印象を与える。彼が沈黙していると、世界は彼が何を隠しているのだと疑う。彼が話をして自分の会社を擁護する時、彼は未熟な若者に見える。彼が失敗を認める時、彼は責任感に欠けているように見える。

そんな気弱でありふれた無害な人物を軽蔑するというのは奇妙な話だ。ザッカーバーグが嫌われていることは、21世紀最初の10数年がテクノロジー企業の経営者が深く嫌われる時代であったことを象徴している。何十年もの間、技術革新は市民と政府と両方にとって利があるものとして扱われてきた。それは正当な理由があってのことだ。戦後の時代は技術革新が雇用を作り出し、中産階級に利益をもたらしてきた。現在はもはや技術的な変化は普遍的な利益ではなくなっている。主な経済的影響は所得の不均衡を拡大させることで、主な社会的影響は人々を支えていた共同体を引き裂くことだ。Facebookは鬱を作り出し偽情報を広める巨大で中毒性のある機械になっている。

フォードやエジソンなどの産業の巨匠たちは、自分たち自身を金持ちにしたと同時に中産階級を作り出し、それによってアメリカの民主主義は底辺からの安定を得たのだった。現代のテクノロジー企業の支配者たちは自分たちを金持ちにしたと同時に中産階級を壊滅させ民主主義を弱体化させた。彼らは偉大な義務と理想を持った悪役という新しい役割に身を投じているように見える。それがピーター・ティールと彼の輸血事業や世界滅亡に備えた別荘の購入が流行することなどに現れているのかもしれない。こうした不可解な行動は、そのおかしな人たちが作っている製品の価値を私たちが信頼しているなら個人の奇行以上のものではない。最も優れて聡明な人たちがシリコンバレーを目指すのは彼らが未来を創造したいと考えるからのはずだ。しかし、未来がお粗末なものだとしたらどうだろう?私たちが今知っていることを知っているなら、何故聡明な若者たちは大手タバコ会社で働くよりもFacebookで働きたいと考えるのだろうか?

19世紀に泥棒男爵と呼ばれた寡占市場の支配者たちは少なくとも彼らが世界の中でしていることについて公正さの尺度を持っていた。鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは死の床についた時、彼の元パートナー、ヘンリー・クレイ・フリックに面会を求めた。それに対しフリックは「彼に会うのは地獄でだと伝えてくれ、私たち2人は地獄行きだ」と答えたと言う。ザッカーバーグが議会で発した開会の声明の中にはこうした自己認識は反映されていない。「Facebookは理想主義的で楽観主義的な会社です。私たちはこれまで大部分の時間を、人々が繋がることから得られる利益を追求してきました」。ザッカーバーグが彼個人の財産の拡大を公共の利益の改善と区別できていないことは驚くべきことだ。これは都合の悪いものを見ようとしない破滅的な形であると言える。

私たちは何年も前からFacebookの危険性を知っていたはずだ。ケンブリッジ・アナリティカとは関係なく、ソーシャルメディアは政治情報を捻じ曲げ分断させることを確かに前から知っていたはずなのだ、それが最終的にドナルド・トランプの当選を呼び込んだのだ。だからザッカーバーグの謝罪は中身が無いのだ。ザッカーバーグが度を越して謝罪を繰り返す理由は、彼にはその責任を負う能力がないことがハッキリしているにも関わらず、今の力を維持することを主張したいからだ。彼が何を言うのかも、彼が何をするのかすらも最早問題ではない。問題は私たちが何をするのか、ユーザーたちが何をするのか、世界の政府が何をするのかだ。過去を自慢するようなことはしたくはないが、私は6年前、The Atlantic誌にFacebookが如何に私たちを孤独にしているかについて記事を寄稿した。Facebookを使うことの負の影響についての調査は当時でも既に明白なものだった。社会学者のゼイナップ・トゥフェックチーはトランプが大統領になるとは誰もが夢にも思っていなかった頃にFacebookの政治的な影響力について指摘していた。一度騙されるのは騙す方の恥、二度騙されるのは騙される方の恥だと言うなら、15年間騙され続けている場合はなんと言えば良いのだろう?私たちはFacebookを利用することはデジタルプライバシーに深刻な影響を及ぼす可能性があることを言われていなかったわけではないのだ。かつてFacebookは自分たちは何かを打ち破るのだと書いていた。それを見た私たちは彼らが何をしようとしていると考えたのだろう?

世界中の人々を繋ぎたいという夢はこれまでにない孤立という結果をもたらした。世界中の知識に簡単にアクセスできるようにしたいという夢は愚かさと嘘を蔓延らせてしまった。私たちがザッカーバーグを責めるのは、私たちは自身を責めることに耐えられないからだ。真実は私たちとFacebookとの取引にある、私たちは自分たちの情報を無料で明け渡してしまったのだ。私たちが自分で選んだ世界について責任を負うことができなくなってしまったことで、私たちは技術者たちを責めを負うこのとのできる怪物にしてしまっている。

人工頭脳学の父とされるノーバート・ウィーナーは1964年の著書「科学と神」の中で、「人のものは人に、コンピューターのものはコンピューターに」と書いている。「これは私たちが人間とコンピューターを一緒に雇った場合に採用するべき懸命な方針だと思います。この方針は機械の信奉者からと同様に、あらゆる機械的な補助と考えられるものを使うことがただ人間の冒涜と堕落だと考える人からも距離を置いたものです」。しかし議会の誰がその区別を判断できるというのだろう?ソーシャルメディアを規制するための有効な国家戦略を見つけ出すことはできるとしても、ザッカーバーグが何を謝っているのか理解できる人がいるだろうか?ザッカーバーグは彼の人生で定期的に自身の評判を落としているが致命的なものにはなっていない。人々はまだFacebookを使っている、私もそうだ。この記事もFacebookに投稿されるだろう。そうならない理由があるだろうか?この記事がFacebookに投稿されない世界を想像できるだろうか?そういう時代を思い出すことはできるが、そうなる未来を想像することはできない。

ザッカーバーグが謝っている時、特に腹立たしく見えるものが確かにある。それは落胆して見せたような外見ではなく、赤くなった顔でもない。それは彼がこれまでやってきたやり方が明らかにされたことを悲しんでいることを伝える無表情だ。彼の無邪気さは腹立たしいものだ、そしてそれは金儲けの隠れ蓑になっている「テクノロジー」という言葉の腹立たしい無邪気さと互換性のあるものだ。「テクノロジー」は技術者が世界を良くするために真摯に作り上げる知的実戦を意味している。しかし主なテクノロジー企業は金儲けである。それが彼らの全てであり、彼らが革新させているのはお金を稼ぐ方法だ。

しかしザッカーバーグの中に見る無邪気さがここまで腹立たしいことは、私たち自身が個人的にも政治的にも無責任であることの反映であるはずだ。マーク・ザッカーバーグに対する嫌悪感は最終的には自分に跳ね返ってくるものだ。それは私たちが作り上げている世界に対する深い不安感の現れなのかもしれない。

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