2019年7月8日月曜日

見れば見るほどポピュリストに投票するようになる


テレビの大衆娯楽番組がシルヴィオ・ベルルスコーニを支えていたという研究。


The Atlantic
Yascha Mounk
JUL 6, 2019

テレビを見てると人間は愚かになる? 愚かになった人はポピュリスト政党に投票する? ここ数年、いや数十年に渡って起こってきたことはこんなことなのだろうか?

数日前にこう尋ねられたら、私はかなり懐疑的な反応を示すことになっただろう。経験ある人間として、これらの話は信じるにはあまりにも短絡的だと感じられる。しかし、世界で最も権威のある社会科学情報誌の1つである「American Economic Review」に掲載された新しい論文は、このテレビに関わる陳腐な言説に真実が含まれている可能性を緻密に指摘している。

この研究は3人の経済学者によるものだ。ルーベン・ドゥランテ、パオロ・ピノッティ、アンドレア・タセイ、彼らはこの研究の驚愕の結論に強力な証拠を示して見せた。テレビで娯楽番組をたくさん見ることは、人の知性に悪影響を及ぼす。そして同時にその人はポピュリスト政党に投票する可能性が高くなるというのだ。


1970年代までイタリアのテレビ業界はまだ初期段階にあり、全国放送は国営放送局 RAI だけだった。RAI は1日に平均して10時間程度放送していて、放送内容の3分の2近くは、真面目なニュース番組か教育番組だった。コマーシャルでさえ極めて高い道徳基準を守らなければならず、例えばペットフードのコマーシャルに動く猫や犬の映像を見せるのは不適切であるとされていた。どうやら当時の RAI の上層部は、発展途上国の人々が飢饉に苦しんでいる時に、猫や犬のための食べ物を企業が大々的に宣伝することは不適切であると考えていたようだ。

こうしたもの全てが変化したのは、イタリアで最も金持ちの起業家シルヴィオ・ベルルスコーニが1980年代に地方のテレビ局を買収し始めた時だった。イタリアの裁判所は彼の行動が違法であると繰り返し宣言していたが、ベルルスコーニは有力政治家とのコネクションを使ってイタリア初の民営ネットワーク「メディアセット」を作り上げたのだった。

RAI とメディアセットの違いは、アメリカで言えば1960年代の全国ネットワークと2010年代のケーブルテレビ番組くらい大きう違うものだった。メディアセットではニュースや教育系の番組は10%もなかった。RAI では真面目な政治家や大学教授たちが日々差し迫る問題を熱心に討論している一方で、ベルルスコーニのチャンネルは低俗なショーに依存していた。メディアセットの最も悪名高い番組は、回答者がクイズに正解するか、ルーレットを回して当たりを出すと、モデルの女性が一枚ずつ服を脱いでいくというもので、彼女が(ほぼ)裸になると彼が勝ちとなる、というものだった。

ベルルスコーニの放送網が徐々にイタリアの各地域に進出していったことを利用して、テレビの大衆娯楽番組が投票行動に及ぼす影響を調べることができる。ドゥランテ、ピノッティ、テセイは初期段階からメディアセットの視聴が可能だった地域ではベルルスコーニの新しい政党である「フォルツァ・イタリア」に投票している割合が非常に高かったことを明らかにしている。

この効果は1990年代も2000年代も継続し、メディアセットに初期段階から晒されていた地域では他の地域よりもベルルスコーニが多く得票することになっていた。論文では、メディアセットが影響を与えた要素になっていたことを検証するために、当初、山などの地理的な障害のために受信電波が弱かった地域と、最初から良好だった地域の比較を行っている。その結果は驚くほど明らかで、受信状態が良かった地域ではそうでなかった地域と比べてポピュリストの得票率が高くなっていた。

論文では、「高齢世代のイタリア人の間にフォルツァ・イタリアへの支持が広がったのは、メディアセットによるベルルスコーニに著しく好意的なニュース番組に晒されたことに起因する可能性がある」ことが述べられている。メディアセットに早くから晒されていた人ほど多くの放送を見ることになり、メディアセットのニュースキャスターがベルルスコーニを称える放送を見て、印象を操作されることになった。これはわかりやすい話だ。

では若い世代のイタリア人たちはどうなのだろう? 論文では、テレビの大衆娯楽番組の一般視聴者は認知能力が貧相なためにベルルスコーニを好むようになると指摘している。まるで自称エリート層が発する悪い冗談のようだが、この研究では10才になる前にメディアセットの番組を多く見ていたイタリア人は基本的な計算能力と識字能力が低いことが明らかにされている。そして、イタリア軍が兵士の募集を大衆娯楽番組の中で宣伝する必要性が高くなればなるほど、兵士として不適格になる人が多くなった。彼らは最低限の知性要件を満たしていなかったのだった。

こうした知的教養の低下はベルルスコーニに有利に作用した。ポピュリスト政党は政治についてあまり知識のない有権者に対して意図的に訴えかけるので、この理論は成り立つ(大統領になる前、ドナルド・トランプは「私は無教養な連中が大好きだ」と宣言していたことは有名である)。ベルルスコーニの政党で議員を目指した政党のメンバーは、偶然ではなく多くが元メディアセットの広告セールスマンであり、ベルルスコーニは勉強会で彼らに「庶民」に訴えることの重要性を強調した。彼が言う平均的な有権者というのは18才になる前に学校を離れ、クラスで成績上位に名を連ねることは全くなかった人たちのことであった。

ドゥランテ、ピノッティ、テセイの3人はベルルスコーニのテレビ出演を分析し、彼は一貫して「他の政党の指導者たちよりも単純なコミュニケーショ手法を採用していた」ことを明らかにしている。結果的に、彼の行動は教養的でない市民の間に効果を発揮した。この事実を考え合わせると「テレビの大衆娯楽番組に幼少期から晒されていることによる認知能力の低下を通じて政治的傾向に影響を与えられた」ことが示唆されている。

(この場合、因果関係が反対になっている可能性を考えたくなる。認知能力が低い人はテレビを多く見るのではないか? しかし、この論文では不確定に地理的条件を変更することでその可能性を排除している。メディアセットが早く見られるようになった場所では、認知能力の低下が目立っていた。)

20年の長期に渡ってベルルスコーニは複雑な問題に対してイタリア人にとって期待が持てそうで簡単な解決策を提示する名人であった。その解決策が結実しなかった時、彼の同胞たちの忍耐力はついに限界を迎えた。そのことから恩恵を受けたのはコメディアンのベッペ・グリッロによって創設された新しいポピュリスト政党「五つ星運動」だった。彼らは右ではなく左から現れ、ベルルスコーニに対しても称賛するのではなく大声で反対を唱えていたが、ポピュリスト的手法は共通していた。ドゥランテ、ピノット、テセイが指摘するように、同じように単純な言葉を用いて、無責任なエリートたちから市民を守ることを約束していた。

テレビの大衆娯楽番組を簡単に見られるようになったことは、1990年代にベルルスコーニに投票するイタリア人を量産しただけではなく、2010年代になってグリッロの政党に多くの人が投票する可能性を高めたのだった。グリッロとベルルスコーニの間の敵意がこの効果を顕著に見せている。メディアセットはベルルスコーニにしたようにグリッロを大げさに宣伝することはないので、直接の宣伝ではこの投票パターンを説明できない。しかし、おそらくメディアセットは視聴者たちをポピュリストの単純な主張を好むように準備させていた。このことは、始まってから数十年経っていても低俗なテレビ番組は政治談話を粗雑なものにして、ポピュリスト運動に有利に働くという証拠を示している。


社会科学研究を行う上では次の単純な原則を心に留めておかなければならない。ある発見が直感に反するものであればあるほど、より強力な証拠がそれを信じる前に必要となる。

十数年前に発表された有名な論文で、広く尊敬される2人の著名な政治科学者が、1916年のウッドロウ・ウィルソンの2度目大統領選挙では、ニュージャージーで起きたサメによる襲撃事件が彼への得票を低下させたことを論じている。その理論は、サメの襲撃によって観光客が減り、地元経済が窮地に陥ったというものだ。これをウィルソンの過失と見るのは難しいが、有権者たちは経済的に苦しくなって彼を罰した。

この話は、有権者の投票行動は完全に非合理的であるという考え方が多くの学者によって支持されている理由を完全な形で集約したものだ。しかし、最近、若い政治科学者たちがこの研究を再現しようと試みた所、彼らはサメの事件は結局ウィルソンの得票には関わっていない可能性があると結論づけている。この話は真実とするには完璧過ぎる事例だったのかもしれない。

ドゥランテ、ピノッティ、テセイがとった方法論は、真剣に受け止めるのに十分なほど洗練されている。イタリアにおけるメディアセットの影響は、彼らが言うように悲惨で長期にわたるものだった可能性がある。しかし、私は他の研究者たちが彼らの主張に穴を見つけて、データが更に検討されるまでこの結論を受け入れるのは控えたいと思う。この論文と同じくらい綺麗に纏まったエリート政治家たちの前科を主張するものにすぐに飛びついて受け入れるのは、多くの大衆娯楽番組を見過ぎて脳がどろどろになっている誰かだけ、ということかもしれないのだ。

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