2019年7月6日土曜日

結婚することで失うもの


結婚が社会的に良いものではないとしても、人は結婚を望むだろうか?


The Atlantic
MANDY LEN CATRON
 JUL 2, 2019

現代のアメリカでは結婚することは社会的に良いことだと考えるのが自然だ。私たちの生活や共同体は多くの人が結婚することによって良いものになると考えられている。もちろん、いくつかの世代を経て大きく変化していることで、結婚とは時代遅れなものになっているのではないか?という文化的な疑問が湧いているのも事実である。だが、この質問の答えに本当の意味で興味を持つ人は多くはないだろう。

この質問はある種の小手先の修辞に使われることが多い。家族の価値が変化していることについて道徳的な混乱を引き起こそうとしたり、社会が愛情について冷笑的になりすぎているかどうかをあれこれ考えたりするような場合だ。いずれにせよ現代の文化の中に於いても、結婚というのは幸せを作り出すもので、離婚は孤独をもたらすものであり、結婚しないことは人間関係の根本的な失敗であるという考え方が主流である。

しかし、結婚が時代遅れなものであるかどうかよりも重要な疑問が存在する。結婚を文化の中で人間関係の中心に置くことで失われるものは何だろう?

私にとって、これは個人的な問題であると同時に社会的政治的な問題でもある。私がパートナーのマークと結婚したいのかどうか話題にする時、友人たちは私たちの関係が「真剣」なものであるかどうかで判断しようとしがちだ。だが、私は自分たちの関係にはなんの疑いも持っていない、結婚という制度自体に疑問を持っているのだ。

ピュー研究所の調査によると、結婚は成功した人生に不可欠な要素と考えられているが、18才以上のアメリカ人で結婚しているのは約半分に過ぎない。1960年には72%が結婚していたのでその割合はかなり下がっていることになる。その明らかな理由の1つは数十年前と比べて晩婚化が進んでいることだ。2018年の調査では、アメリカの初婚時の平均年齢は男性が30才、女性が28才で、これは過去最高齢である。大半のアメリカ人はいつかは結婚したいと考えているが、大人の14%は全く結婚する気が無く、27%は結婚したいのかどうかよくわからないとしている。これらのデータは結婚という制度の終焉を嘆く人がよく持ち出すものだ。数世代前の時代よりも結婚に人気がなくなっているのは確かなことだが、それでもアメリカ人は他の西側各国に比べれば多くの人が結婚していて、どの国よりも多くの人が離婚している。

結婚という制度は無くなるものではないと信じる有力な理由がある。社会学者のアンドリュー・シャーリンの指摘によると、2015年に最高裁判所が同性婚を合法と決定してからわずか2年後には同居していた同性カップルの61%が結婚している。これは非常に高い割合だ。こうしたカップルは新たに認められた法的な権利を享受するために結婚を選択していると同時に、多くの人が結婚を「人間関係の成功の象徴」として捉えていることが伺えるとシャーリンは言う。また、シャーリンは、アメリカでは現在でも結婚することは「人生を謳歌していることを示す最も権威ある方法」なのだと指摘している。

この権威が結婚という制度を批判的に見ることを難しくしている。誓いによって人間は孤独な存在から救い出されるという考えと結びついた場合は更にそうだ。私の友人たちは結婚の恩恵を語る時、しばしば無形の帰属意識や安心感といったものを挙げる。結婚していると「何か違う」のだという。

最高裁が同性婚を認めたオーバーグフェル対ホッジス裁判の判決文に、アンソニー・ケネディ裁判官は「結婚とは、呼びかけても誰もみつからないような、普遍的な孤独への恐れに対する反応である。共にいることと相互の理解に希望をもたらし、双方が生きている間には自分を気にかける人が必ずいることを保証するものである」と書いている。結婚が人との繋がりや社会への帰属意識を求める人間の深層の欲求に対する最良の返答であるというこの考えは信じられないほど魅惑的なものだ。私自身結婚について考える時、まさにこの意識を自分で感じることができる。しかし、結婚の恩恵は何であれ、それは対価を支払わなければならないものであることを指摘する研究もある。

チェーホフによれば「孤独を恐れるなら結婚はするな」だそうだ。彼は何かに気づいていたのかもしれない。ボストン大学のナタリア・サーキシアンとマサチューセッツ大学アーマスト校のナオミ・ガーステル、この2人の社会学者は全国調査を行い、結婚することで社会的な繋がりが弱まることを明らかにしている。独身でいる人と比較して、結婚した人は両親や兄弟姉妹を訪ねたり連絡をとったりする頻度が下がり、雑用や交通手段などで彼らを助けたり、あるいは心理的な支援を提供する頻度も下がる。更に友人や近所の人たちと付き合う頻度も低下する。

対照的に独身でいる人は自分の周りの社会との繋がりを多く持っている。平均して彼らは兄弟姉妹や高齢の両親の面倒を見ることが多く、友達の数も多い。また、隣人に助けを申し出たり、助けてもらったりする頻度も高い。これはずっと独身でいる人に特に当てはまり、猫を抱いた高齢の独身女性の印象を完全に覆すものだ。特に独身の女性は政治に関与することが多く、既婚の女性よりも集会に参加し、自身が重要だと思うことについて募金活動を行うことも多い。(この傾向は離婚して独身になった人にも当てはまるが、若干薄くはなる。同居のカップルについてはデータ不足でこの研究からは除外されている)

サーキシアンとガーステルは、このことが小さな子供の世話に追われていることで説明できるとは考えていない。確かに結婚して子供を持った親たちは隣人や友人たちと交流するためのエネルギーや時間が取れないかもしれない。しかし、データによると結婚して子供を持っていない人たちが最も孤立している。これを説明できる可能性として、こうした夫婦は他のケースよりも時間とお金に余裕があるということがある。家族や友人たちの助けを必要としないため、その見返りを提供する可能性も低い。成功した夫婦の結婚生活の自律性は、彼らを地域社会から切り離してしまっているのかもしれない。むしろ子供を持つと他者の助けを必要とするために孤立が緩和される。

この傾向は殆どの部分に於いて、既婚者と未婚者の生活の構造的な違いによっては説明できない。研究者が年齢や社会経済的地位を考慮に入れても、人種やグループに関係なく同じ傾向がある。なので、結婚生活の環境が孤立を招いているのではなく、結婚することそのものが原因になっている。

サーキシアンとガーステルの研究を見た時、私はデータには驚かなかったが、現代社会で恋愛関係に従事する上で生じる孤立について語っている部分が存在しないことに驚いた。同居していて結婚していないカップルは結婚に伴う恩恵と犠牲の少なくとも一部は経験している。結婚しているかどうかに関わらず、真剣な交際相手との共同生活は社会的孤立を生み出す規範を押し付けられる可能性がある。私は、パートナーのマークが私のアパートに引っ越してきた時、家庭生活を共有する楽しみを得ることができた。犬の散歩や食料品の買い物を一緒にすることが出来る人がいることを嬉しく思い、夜には彼とベッドに入るのが好きだった。

しかし、自分の生活を振り返って見た時、その範囲が縮小していることに驚かされた。私はあまり外に出かけなくなったし、仕事終わりにビールの誘いを受けることも減った。両親でさえも連絡をくれることが少なくなった。結婚についてはまだ話し合ってはいなかったが、私たち2人が前に進む一歩は友人関係と地域社会から離れる一歩になるということを誰もが暗黙のうちに了解しているようだった。私は家では幸せだったが、その幸福感は予期していなかった孤独感と抱き合わせのものだった。

結婚について考えると、更に孤立が深まることが想像された。結婚というのはただの同居にはない社会的かつ制度的な力を伴うものだ。権威がある強力な規範を発揮する。

社会的疎外はアメリカにおける結婚についてのイデオロギーと完全に統合されているため、見落としがちなものである。サーキシアンとガーステルは、現代の結婚には「自給自足」の文化的前提を伴っていると指摘している。このことは、アメリカの若者が家族やルームメイトと一緒にではなく1人で暮らすことができるようになるまで、結婚しようとしない傾向に反映されている。結婚生活というのは完全な経済的自立の一要素であるという仮定の元に扱われている。

この「自給自足」の考え方は結婚式のあり方にも投影されていて、自分が属する家族やコミュニティのことよりも個人同士が結婚することが強調されるようになっている。結婚式計画支援サイト TheKnot.com を見てみると、そのキャッチフレーズは「あなたの方法であなたの日を迎えましょう」というもので、クイズ形式で「あなたの結婚式スタイル」を決定することができる。全ての細部まで徹底して「あなた」のための結婚式が作り上げられるようになっている。確かに、結婚式で個人のアイデンティティを完全に表現するという考えは魅力的なものだが、これは現代特有の概念と言える。

社会心理学者のエリ・フィンケルは著書「The All-or-Nothing Marriage」の中で、過去200年の間にアメリカで結婚に対する期待が、マズローの自己実現理論の欲求5段階層をどのように駆け上がって来たのかを検証している。ほんの数世代前は結婚というのは、愛と共同生活、そして家族や地域社会への帰属意識によって定義されるものだった。今、結婚する人たちは、結婚にその全てを求めると同時に、権威、自律、個人としての成長、自己表現をも求めるようになっているとフィンケルは言う。結婚することが、自分自身が最高級の自分になるための助けになるものだと考えられている。このことは、ますます多くのアメリカ人が、かつては属するコミュニティ全体が果たしていた役割を配偶者に期待することを意味している。

アメリカの結婚の概念を外側から考える1つの方法はそれがない世界を想像してみることだ。アメリカにおける結婚についてのイデオロギーに暗黙のうちに「自給自足」が含まれているのは、医療から経済支援、自己啓発、職業支援まであらゆるものが主として個人に帰していることが理由として考えられる。誰かが病気になったらその配偶者がスープを作ってあげるべきであり、誰かが夢の仕事に就くために大学に戻る時にはその配偶者が家賃を支払うべきである。

アンドリュー・シャーリンは著書「The Marriage-Go-Round」の中で、結婚を土台とした家族を背の高い木に例えている。家族の面倒を見ることや支援行為は世代間で縦関係には行われるが、兄弟姉妹、叔母叔父、従兄弟などのような分岐した枝に助けを求めたり、援助を提供したりすることは滅多にない。そして特に子供が関わる場合には、家族の面倒を見るという仕事は性別で言うと不釣り合いに女性の負担になる。結婚という概念が存在しなければ、こうした世話や支援の仕事は、広い意味での家族、近所関係、友人たちといったネットワークに再分配される可能性がある。

この「面倒見の木」の剪定とは関係なく、結婚を支持する主流な主張の1つは、それが子育てのために最適な環境であるというものだ。しかし、シャーリンが著書の中で主張しているように、子供たちにとって重要なのは「一緒に住む家族の種類ではなく、その安定性」である。安定性は2人の親による家族の形をとるかもしれないし、あるいは、シャーリンが指摘するように、例えばアフリカ系アメリカ人コミュニティに見られるような広い意味でのファミリーという構造で得られるかもしれない。離婚、再婚、同棲、こうしたものの頻度を考慮すれば、結婚は多くの家族にとって一時的な安定をもたらすだけのものだ。安定性が子供にとって重要なものであるならば、結婚ではなくその安定性こそが最初の目的にされるべきである。

もちろん、離婚率についてはともかく、結婚には人間関係を安定させる力があり、この約束自体がカップルが必ずしも望んでいない時があっても一緒に居続けることに役立つものだと主張する人もいる。結婚は未婚の同棲関係よりも破局を迎える可能性が低いのは事実だが、それは単に結婚を選択した人たちはもともと壊れにくい親密な関係を持っていたというだけの話かもしれない。自分たちが意識していなくても結婚することで責任感が強まるのだと根拠なく主張する人は多くいる。

しかし、他の研究によれば人間関係の充足に重要なのはその約束の段階や、その約束が取り交わされた時の年齢であり、結婚しているかどうかではないということが示されている。更に問題なのはここ数十年で結婚、離婚、同棲などを取り巻く社会的規範が急速に変化したため、信頼できる長期的なデータを収集するのが難しいということだ。そして、離婚というのは確かに簡単なことではないが、結婚せずに同居しているカップルも簡単に別れられるものではない。マークと私は資産を共有しているし、今後子供ができる可能性もある。私たち自身の責任感とは別な部分で、私たちには一緒にいる理由をたくさん持っている。離婚は無関係でも、私たちの生活を別々のものにするのは難しい。

長年独身者について研究を続けてきた心理学者のベラ・デポーロは、結婚を人生の中心に据えることは深刻な悪影響をもたらしていると言う。「何か1つのことが『幸福な人生を送るための唯一の方法』として疑いなく支配的になっていれば、多くの人が惨めな状況になります」と彼女は言う。離婚や独身でいることについて回る不名誉によって、不健全な結婚を終わらせることや、結婚しない選択が難しくなる可能性がある。デポーロは人々は別な話を必要としているのだと考えている。結婚を重視し過ぎることで、他の意味のある関係を見落とすことになっている。深遠な友情、ルームメイト、チョーズン・ファミリー(chosen familly:自分で家族として選んだ人たち)、広範な親族のネットワーク。これらの関係は親密さと援助の源として重要なもののはずだ。

人類学者のキャス・ウエストンは1991年の著書「Families We Choose」の中で、チョーズン・ファミリーのようなものが性的少数者コミュニティの中で目立っていることについて書いている。法的にも生物学的にも無関係に形成されたこの関係は特にエイズ危機の時に性的少数者の中で中心的な役割を果たしていた。重要なことは、ウエストンが取材した人たちが新しい家族の形を作ることに目を向けたのは、単に彼らの婚姻が法的に認められなかったからだけではなく、彼らの多くは生物学的な家族から拒絶された立場にいたことも理由になっていることだ。そして今でもLGBTQ+コミュニティは結婚制度の枠を超えた親密さと面倒見のための関係の新しいモデルを提供し続けている。

同性婚が合法化されたことが、性的少数者の今後の世代にどのように影響するのかを語るのは時期尚早だが、推測として、ノートルダム大学の社会学者アビゲイル・オコボックは、性的少数者のカップルは、コミュニティとの間に積み重ねてきた信頼関係によって、婚姻による孤立効果に対してより耐性があるかもしれないと話している。一方で、「性的少数者の家族と関係」という学術論文の著者であるマイケル・ヤーブローは、結婚が平等になったことで「既婚でも未婚でも性的少数者の人たちが疎外感を感じなくなった」のは確かだが、いくつかの証拠が「LGBTQコミュニティへの参加が減っている」ことを示していると述べている。ヤーブローの共同執筆者であるアンジェラ・ジョーンズは結婚という制度は、最も疎外されている性的少数者の人々をサポートできていないと指摘している。彼女はメールに「私たちがどのように生活を形成し家族やコミュニティの中で喜びを見つけるかということについて根本的な変化が必要で、それは結婚が可能になることによってではなく本当の意味で性的少数者が解放されることによって達成されるのだと思います」と書いてくれた。

「愛は人生の骨髄」だと言われる、だが多くの人たちはそれを結婚と核家族に縛られた狭い規定に押し込んでしまおうとしている。そして、この規定は文化的な背景に由来するものとして考えられることが多いが、実際はそうではない。ほとんどのアメリカ人は自分独自の方法で生活を送っている。典型的な「両親と子供がいる家族」というのはアメリカの世帯のわずか20%に過ぎず、子供のいないカップル(既婚、未婚問わず)も25%である。何百万ものアメリカ人は1人で暮らしているか、他の大人と暮らしているか、ひとり親として子供と暮らしている。結婚を祝い支えることに現在捧げられているのと同じエネルギーを、全ての親密な関係を支えるために用いる文化の中に暮らしていたらどういうことになるのかを考えてみる価値はある。

政府、病院、保険会社、学校のような組織は結婚(とそれによってできる核家族)を前提の単位として扱っている。しかしもちろん「愛」とそれによって必要となるものはそれよりもずっと広範囲にわたり扱いにくいものだ。仮にあなたが姉とその息子と医療給付を共有できるとしたらどうだろうか。あるいは、手術を受けた親しい友人に付き添うために有給休暇を取るのはどうだろうか。孤独を感じる人の割合が高い国では、意味のある愛とみなされるものについて私たちの感覚を広げて、そしてあらゆる形の関係を認めて支持することは多大な利益をもたらす可能性がある。結婚のような偏屈な制度を支えるためにエネルギーを費やすのではなく、家族の安定を支えるためのあらゆる努力のために費やすことができるはずだ。

マークと私が結婚したいのかどうかを話し合う時、私たちが本当に問うているのは、私たちはどのように家族とコミュニティの意識を定義したいのかということだ。私たちが周りに対して果たす役割は何だろう? 誰にそれを提供するのか、そして誰に助けを求めるのか? 私たちが結婚しないことを選択したとしても私たちが孤独から救われるとは思わないが、愛とは何かという私たちの感覚を広げることはその救いになるかもしれない。私たちは少なくとも今のところは結婚しないことにした。この選択によって、私たちは自分たちがお互いに向き合うのと同じくらい、周りの人たちの存在を意識できるようにしたいと思っている。

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