2018年12月20日木曜日

人が信仰を持つ理由を認知の視点から考える


何故人は神を信じるのかという問いかけは何世紀にも渡って偉大な思想家たちを悩ませてきた。


The Conversation
Nick Perham
December 19, 2018

人々が信仰を持つ理由を端的に答えれば、その人が信じる神は現実であり、人は神と交信して神のこの世への関与の証拠を感じ取ることでそれを信じている、ということになるだろう。世界中で宗教を持たない人はわずか16%しかいないという。だが、人数で言えばおよそ12億の人々が、彼らが知る世界と宗教の概念とを調和させることに難しさを感じているということになる。

何故人は神を信じるのかという問いかけは何世紀にも渡って偉大な思想家たちを悩ませてきた。例えばカール・マルクスは宗教を「民衆のアヘン」と呼んだ。ジークムント・フロイトは神は幻想であり、信奉者たちは安全と許しという幼児期の必要性に回帰しているのだと感じていた。

より最近の心理学的な説明では、私たちは進化の過程で神を信じることでだけ埋められる「神のかたちの空洞」を作ってきた、あるいは、創造主を信じるように私たちを動かすことができる比喩としての「神のエンジン」が与えられたという考えがある。本質的にこの仮説は、宗教というのは人類が発展する上で極めて重要な数多くの認知的および社会的な適応の副産物であるというものだ。


信仰への適応


私たちは協力しあい支え合ってお互いにやり取りをしながら生きている社会的な生き物だ。そうした中で必然的に一部の人に対して特別な愛着を持つようになる。イギリスの心理学者ジョン・ボウルビーは、子供たちの感情的および社会的な成長にこの愛着が影響していることを明らかにし、離別や虐待に脅かされた場合にはどれだけの害があるかを指摘している。私たちは成長してからもこの愛着に左右される、恋に落ちる時や友達を作る時、あるいは動物たちや生命を持たない物体にすら愛着を持つことがある。こうした強い愛着が神々やその使徒たちへの信仰に変化すると考えるのは難しいことではない。

私たちの人間関係は、その場の状況とタイミングに於いて人々がどう行動するか予測可能であることに依存している。だが、私たちが愛着を寄せるものに関しては行動を予測するために必ずしもそれが私たちの目の前にある必要はない。私たちは彼らが何をし何を言うのか想像することができる。認知的分離(cognitive decoupling)として知られるこの能力は幼児期のごっこ遊びに起源がある。私たちが身近にいる人の気持を想像することができるということから、全知全能の存在の御心を想像することまではかけ離れたものではなく、そこにその過去の行いを伝える宗教的な文章が存在するなら特にそうだ。

また別な信仰を持つ助けになる重要な適応として、人間と同様の性質を物体から見出す擬人観という能力が有る。ドアに掛けられたコートに人間の輪郭を見たことはないだろうか。人間の形態や行動を人間以外のものに当てはめる能力は「神」のような人間以外の存在に私たちが持っているのと同じ性質を付与することになり、そのことによってそれらのものとの関係を作りやすくする。


行動上の利点


こうした心理的側面に加えて集団礼拝に見られるような儀式的な行動は私たちを楽しませ、繰り返し経験したいと思わされる。ダンスや歌唱によってトランス状態を作り出すことは我々の祖先の社会によくあったもので、現在でもインド洋東部のアンダマン諸島に浮かぶ北センチネル島に住むセンチネル族やオーストラリアの原住民たちの間で行われている。宗教儀式は社会に一体感をもたらすだけでなく、脳にも化学変化を起こす。こうした儀式は脳内にセロトニン、ドーパミン、オキシトシンを増加させる。これらの化学物質は私たちの気分を良いものにし、再び経験したいと思わせ、周囲の人々との距離を縮める。

これらの認知的適応は宗教的思想に異議を唱えることのない教育や家族の規範によって促進されることになる。私たちは幼児期にサンタクロースや歯の妖精といったようなあまり証拠に基づかない儀礼に従うことを推奨されるが、これは宗教とは関係がない。こうしたものは宗教的な教義ではあまり推奨されず、罪深い行為とみなされることもある。

個人の視点に関わらず、宗教と宗教的思考が人間の機能と進化に与える影響は終わりの見えない魅力的な知的討論の主題である。もちろん神はこうした概略の上にすべてを創造したのだと主張する人もいるかもしれないが、その主張は私たちを更に大きい別な質問に導くことになる。神が存在する証拠とは何か?

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