What number of kids makes parents happiest? https://t.co/EtkCVmx1D5— PAA (@PopAssocAmerica) May 6, 2019
Quotes and research from PAA President John Casterline, and members Robert Crosnoe, Sarah Hayford, @ashley_gibby @WilcoxNMP @kei_nomaguchi
via @jpinsk @TheAtlantic
0人?3人?6人?2.1人?
The Atlantic
JOE PINSKER
MAY 3, 2019
経済学者で子供の父親でもあるブライアン・カプランは親としての喜びとストレスについて多くのことを思考している。彼に両親の幸福という観点から見て適切な子供の数というのは何人なのかを尋ねてみたところ、彼は極めて分別のある返答をした。「『その適切な数は4人である』という経済学者らしからぬ答えをしたい衝動にかられます」
もう少し突っ込んでみたところ「典型的なアメリカ人として子供を持つ喜びを感じることができて、子育てについて調整し問題を解決する実質的な意欲がある人なら、その正しい答えは4人なのだと思います」と続ける。
4人というのはカプラン自身の子供の数である。しかし、彼がこの数字を一般化する理由には合理性が有る。親であることについての調査に関するカプランの解釈は2011年の彼の著書「Selfish Reasons to Have More Kids(より多く子供を持つ利己的な理由)」に記されている。それによれば、両親が子供の成功を願って、時間とお金をかけること(課外活動に勤しむことや私立学校に入れること)は、実際には子供の将来の収入や幸福にはあまり貢献していないという。
別な言い方をするなら、親たちの多くは子育てに於いて不必要に大変な思いをしていることになる。なのでおそらくカプランは、子供を持つことは楽しく満足感の得られることなのだから、子育ての方法論を再考してより多くの子供を持つ余裕が持てるかどうか考えてみるべきだと主張したいのだろう。4人という数字に洗練された数学的根拠があるわけではない。「この数字はあくまで私の感覚で、人がどのくらい本質的に子供が好きかということと、どのくらい不要な手間を掛けているかということの比較を基にしたものです」と彼は話している。カプランは自分自身は4人よりも更に多いほうが良いのではないかとさえ考えている。
もちろん、今回の私とカプランの会話は正確な何かが反映されたものではない。1つの家族に何人の子供がいるのが最適であるか、という問題について考えるには、親、子供、そして社会としての側面から、複数の、時にはお互いに矛盾する評価方法を用いる必要がある。家族の大きさがその中の1人1人の生活をどのように形作るのかについて、知られていることも知られていないことも含めて、様々な疑問について考えてみる必要がある。
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両親の幸福を最大化するための持つべき子供の人数を確定させようと試みた研究はいくつかは存在している。2000年代中頃から開始されたある研究では、2人目あるいは3人目の子供は両親をより幸せにすることはないと指摘している。「自身の幸せの最大化を求めるのであれば、子供は1人までで止めるべきである」と、この研究の著者はPsychology Todayに対して語っている。欧州で実施されたもう少し最近の研究では、「2人」がその魔法の数字であることを発見して、それ以上多くの子供を持っても両親に喜びがもたらされることはなかったと述べている。
Gallupによるアンケートでは、アメリカでは大人のほぼ半数が、2人が子供の理想的な人数であると考えている。その次に人気があるのは3人で、これが26%を占めている。2人というのは欧州でも好まれている人数である。
ペンステートで社会学と人口統計学を研究するアシュリー・ラーセン・ギビーは、こうした数字は確実なものではないという。「多くの証拠が2人の子供を持つことが適切であることを示してはいますが、西洋社会全体に一般化して主張するのは躊躇があります」とメールで伝えてくれた。「『標準的』な数の子供を持つことは、社会的にも制度的にも適切な支援を受けることができる可能性が高いはずです。ですから、2人が普通だと考えられている場所では2人が適切なのでしょう。ですが、規範が変われば、この質問に対する答えも変わるのだと思います」
この「2人の子供の理想」はおよそ半世紀前は成立していなかった。1957年の調査ではアメリカ人の20%だけが子供の数を2人以下が理想であるとし、71%が3人以上を理想としていた。この変化には経済状況が影響しているようだ。テキサス大学オースティン校の歴史学者であるスティーブン・ミンツは、所謂ベビーブームの時代には理想の子供の数は3人、4人、5人といったものだったという。「子供を育てるコストが高くなったこと、そして、女性が働く機会が増えて『子育て機』になることを拒否する機運が高まったことでこの数字が縮小していったのです」と彼は話している。
子供を育てるコストというのは単にお金だけの問題ではない。テキサス大学オースティン校の社会学教授であるロバート・クロスノーは「私は親として心身ともに健康であると思いますが、現代では多くの人が有る種の徹底した子育てのやり方に従わなければならないと感じるようになっています。そのことを考慮すると子供は2人までしか持てませんでした」と話す(ちなみに彼は「私の両親が同じように考えなくてよかったです、私自身は3番目の子供なので」と付け加えている)。
同時に、子供が1人だけということは両親が少なくとも男の子か女の子かどちらかを育てる機会を逃すことになる。今はそうではないが、半世紀前は男の子の方が好まれる傾向にあった(そして、一般的に夫婦は男の子と女の子が1人ずつ揃うとそれ以上子供を作ることを止める可能性が高い)。おそらくこのことも2人という人数が好まれる理由になっている。だが、ある研究者の調査によると長い目で見て少なくとも母親の幸福感には、全ての子供が女子であるか男子であるかには関係が見られなかった(この研究者は父親については検証していない)。
しかし、2人よりも多くの子供を欲しがる人はたくさんいるし、2人もいなくても良いと考える人も多い。概して私が話を聞いた専門家たちは、家族の適切な子供の数というのは、それぞれの家族の欲求と制約によって決まるものだということで一致していた。「夫婦が子供に強く興味を持っていると感じる時、子供のためのエネルギーを感じる時、同じ地域に祖父母が住んでいる場合のように、多くのサポートを受けられる場合、そして相当の収入を得ている場合、こうした場合には大きな家族を持つことが彼らにとって適切な選択になるのです」とバージニア大学のナショナル・マリッジ・プロジェクトを主導するブラッド・ウィルコックスが話している。「そして、夫婦の資産が少ない場合、これは情緒的、社会的、経済的な資産ですが、そうした場合には小さな家族でいるのが最良の選択になるのです」
では、両親の欲求と現実の間にギャップがある場合はどうなるのだろう?2018年の総合的社会調査によると、アメリカの43歳から52歳の女性の40%が自分の子供の数は理想よりも少なかったと答えている。「ここでの話の1つは、現代は人間の歴史の中でも女性たちが出産する年齢が高齢化した状態であることです。結婚も遅くなっています」とウィルコックスは言う。「これら2つのことが意味するのは、それなりの数の女性たちが望んでいた人数の子供を持つことができなかったり、子供が欲しいと思ったときには出産するには遅くなっているということです」
根本的な原因は異なっているかもしれないが、この理想と現実の不一致は世界的に見られる傾向で、特に女性を幸福から遠ざけているように見える。人々が理想とする家族の人数は様々で高度に個人的な問題だが、それが何であれ目標が達成されれば幸せになれるということなのだろう。
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おそらく数字の違いとして最も意味があるのは子供の数が「1人か2人か」や「2人か3人か」よりも、「0人か1人か」、つまり「親になるかどうか」ということだろう。
「1人の子供を持つということは大人の生活に様々な側面を与えます。時間、お金、感情、心が子供のために使われることになり、そして子供を中心とした新しい社会的なネットワークが形成されるのです」とボーリング・グリーン州立大学の社会学者ケイ・ノマグチは言う。「高価な余暇活動を嗜み、パートナーとの特別な関係を大事にして、夫婦で仕事にも力を注ぐ、というような大人を中心とした生活を享受したいなら子供を持たないというのが究極の選択肢になり得ます」
当然ながら、子供を持った場合には母親は父親よりも家庭の中で失うものが多い。子供を持つことは女性にとって男性よりも大きなストレスがかかり、子供を持つと母親は父親が負わない義務を負うことになる(子供を持った時の両親の幸福度は各国の育児休暇や子育て手当の制度にも左右されるようだ)。こうしたことを考えれば子供を持たないことは良いことであるといえる。
夫婦にとって適切な子供の数が0人より多いのかどうかというのは、多くの研究者たちが取り組んできた疑問であり、彼らの研究によって問題になる変数の範囲が指し示されている。
最近の研究では、余裕がある限りは親になることで人はより幸せになると述べられている。そして、2014年には「親たちが惨めな状態であるか喜ばしい状態であるかが単純に一般化され過ぎている」という懐疑的な見方に基づいてなされた既存の研究の再検討によって、幅広いパターンが検出された。新しく子供を持つことは、母親や若い人、独身の人、または小さな子供を持っている人にとってはあまり良い経験とは捉えられない傾向にあり、父親や既婚者、晩年になって子供を持った人にとってはより良い経験になる傾向がある。
何が適切であるかは、年齢、ライフステージ、家族構成によって決まる。言い換えると変化する可能性のあるものに依存している。小さな子供の親になること自体は幸福を最大化することとは感じられないかもしれないが、年を経て親としての生活は充実したものになるかもしれない。
ブライアン・カプランは、多くの人は子供を持つことについて考える時に、重圧を感じたり寝不足になったりする子育ての最初期を想像しがちなのだと考えている。彼らは、例えば子供が25歳になり50歳になったときの家庭生活を過小評価しているという。カプランは将来的に孫を持つことができなければ不幸になるのではないかと心配している人に対して助言できることがあるという。「そのリスクを軽減させるためにできることは、とにかく多くの子供を持つことです」
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両親は自分たちの幸福を最大化するために子供の人数を決めることになるが、子供たち自体の幸福についてはどうだろう?兄弟姉妹に適切な人数というのはあるのだろうか?
兄弟姉妹でケンカすることもあるだろうが、一般的に言って兄弟姉妹の存在は良いものであると考えられている。実際、兄弟姉妹を持つことは子供の社会的スキルを向上させ、高齢者になっても兄弟姉妹と良い関係にある人はより健康であるという研究が存在する。(兄弟姉妹の存在が離婚の可能性を減少させているという研究結果すら存在する。兄弟姉妹と一緒に成長することは、その後の人生で使うことができる技術を与えてくれるものである可能性がある)
しかしながら、少なくとも1つはマイナスの影響がある。兄弟姉妹が多いほど適切な教育が受けられない可能性が高くなる。研究者たちは何年もの間「資源の希薄化」が問題なのではないかと議論を続けてきた。親が自分たちの資源を子どもたちに分け与える時に、子供の数が多いとそれぞれの子供には少なくなるのではないかということだ。この考え方では、子供の視点から見ると兄弟姉妹の数が0から1になった時の被害が最も大きいことになる。世帯のその子に与えられる資源が半分になるからだ。
しかし、この理論は実際には成り立っていない。特に、兄弟姉妹が1人いる子供は、兄弟姉妹がいない1人っ子よりも学校で優秀になる傾向がある。「『資源の希薄』化理論は直感的で簡単な説明ができるので魅力的なのですが、単純過ぎるのです」とオハイオ州立大学の社会学者ダグラス・ダウニーは述べている。「おそらく多くの場合両親の資源というのはこの理論が言うような有限なものではないのです」
例を挙げてみよう。親は2人の子供に同時に本を読んであげることができる。これは彼らの時間を限定する「希薄化」にはならない。また、親たちは子供に対して固定した資産を分配するのではなく、2人の子どもが大学に行く可能性を知っていれば、別の方法で貯蓄することを考えるはずだ。「その場合には親たちは資金の大半を子供の教育のために使うことにして新しいゴルフクラブのために使うことは控えるでしょう」とダウニーは説明する。
そして、両親が子供を育てるのに役立つ強力なコミュニティの中にいるのなら、彼らは彼ら自身が持っているよりも多くの資源を持っていることになる。ダウニーと2人の科学者が実施した2016年の研究によると、兄弟姉妹が多くなることと教育の結果の悪い意味での相関関係はプロテスタントの家族ではモルモン教徒の家族の3倍になったという。モルモン教徒は子供を育てる上で共同体としてのアプローチをとることが多い。「子供の発育が親たち以外にもより広く共有されている場合には、兄弟姉妹が多くなった場合の問題は軽減されます」とダウニーらは書いている。
兄弟姉妹の性別も要素の1つである。「娘よりも息子を持ちたがるような社会においては、姉がいる妹は親からの投資(学費、医療費、場合によっては食事や栄養についてまで)が最悪の状態になるという調査結果があります」とダウニーの同僚であるサラ・ハイフォードはメールに書いてくれた。
兄弟姉妹の存在は良く作用することもそうでない場合もあり得る。兄弟姉妹が何人になら子供たち同士がお互いに最高の生活を与え合うことができるのか解明しようとするのは愚かなことだ。しかしカプランは子供の幸福を最適化する単純な方法論を持っている。「あなたの人生で最も重要なことは、まずあなたの両親があなたを持つことを決心したことです。それぞれの子供はそれぞれに生きる別な個人であり、生きていることに喜びを感じてくれるはずです」
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個々の家庭について考えることは主観的で微妙な話だが、広く社会に対して一家族に何人の子供がいるのが最も適切かという話はそうではない。人口統計学者は、長期的に社会の人口が安定するための数字(大凡、平均して1人の女性が2.1人産む)のみならず「人口置換水準(replacement-level fertility)」という名称まで確定させている。
時に、人口動態はこの人口置換率から逸脱して人口統計学者を悩ませることがある。「個人や社会にとって丁度よい子供の数という保証された数字は存在しないのです」とドイツのロストックにあるマックス・プランク人口統計学研究所を主導するミッコ・ミルスキラは話している。
ミルスキラは「出生率が極めて低い数値の場合、生産年齢人口が高齢者人口に対して小さくなるという状況が作り出され、社会保障制度が問題になります」とメールに書いてくれた。例えば、日本の人口はこの10年減り続け、高齢者人口は増え続けている。低い出生率(女性一人あたり産むのが1.43人)によって、日本の政府は安定した労働者の確保と社会福祉政策に頭を悩ませている。
ミルスキラは続けて「出生率が非常に高い場合、死亡率が低ければ人口は急激に増えることになり、インフラの拡張が必要になりますし消費する資源も増大します」と書いている。ナイジェリアでは、政府が高い出生率を下げるために避妊用具を手に入りやすくしたり、小家族を経済的に優遇するといった対応をしている。
だが、家族が何人の子供を持ちたいかという欲求は社会が決める適切な数字に基づいたものではない。中央アフリカと西アフリカの多くの国々、例えばセネガル、マリ、カメルーンといったあたりでは、多くの女性達が4人から6人の子供を持ちたいと考えているのだと、オハイオ州立大学の人口統計学者でアフリカのこの地域の調査を主導しているジョン・キャスターラインが話している。この数字は教育水準が上がっても比較的高いまま推移している。アジアや南米では教育水準が上がると望む家族の大きさが小さくなる傾向にある。
この地域に限って女性が大きな家族を望む姿勢に変化がない理由ははっきりしてはいない。キャスターラインは推測として、家族がどう概念化されているかを考える必要があるのかもしれないと話している。「生活の多くのことが、大規模な親族集団で資源と労働力を共有する集団的努力として捉えられていて、このことは子供を持つことの個人としての負担を軽減しています」と彼は言う。例えば親族の中に成績優秀な子供が1人いた場合、彼の親戚たちは彼を大学に送るために貯金をすることになる。「共同体集団努力の一種」であるとキャスターラインはいう。そして、その子供が都会で高給の仕事に就くことができれば、親族を助けることができるのである。
別な可能性としては「子供の死亡率の高さから自身を守るためという問題が常に存在しているのです」とキャスターラインは言う。当地では子供が成人できない可能性がそれなりにある。過去数十年の間に世界の多くの地域で子供の死亡率は低下しているが、当地ではまだ低くはない。そこから身を護るための必要性が今も続いていることだ。「30年で3人を成人させるためには何人の子供を産めばよいのでしょう?」とシカゴ大学のジェニー・トリニタポリは話す。「それは乳児や子供の死亡率に左右されるのです」
しかし、こうした説明は決定的なものではない。定量化が困難な「好み」も影響している可能性がある。キャスターラインは 10年ほど前にエジプトで調査を行っている。そこでエジプトの人々と子供が2人の場合と3人の場合について話し合った。「基本的に3人子供がいる方が2人の場合よりも心地よく家族として感じられるのだという実感がありました。彼らの社会生活の多くは家族親戚の集まりであり、叔父叔母や従兄弟とも関わります」と彼は言う。「そして子供が3人いれば、その数は多くなるのです」
しかし、経済状況や社会のあり方が変化し、人々の好みも変化している。例えばアメリカでは、19世紀の初めには結婚した女性は通常7人から10人の子供を産んでいた。だが、20世紀の初めには3人になっていた。なぜだろう?「子供はもはや働き手として経済的な意味を持たなくなっていたのです」と歴史学者のミンツが言う。
そして、社会のある部分は特定の規模の家族にとって最も有効に機能するように設計されている。アメリカを例に考えてみると、現在のアメリカの標準的な自動車は4人で乗るのが快適なように出来ている(ミンツが言うには、50年代、60年代の典型的なセダンは前列もセンターコンソールがないベンチシートになっていて、6人で乗れることを指摘している)。ホテルについてもそうだ。ダブルベッド2つに収まる人数を超える家族は複数の部屋を予約しなければならない。
その社会がどういうもので、そしてその社会の中のその家庭がどういうものかを考慮した後に、その家族に適切な子供の数というのを考えることができるのだろう。しかし、これらの社会を基準にした考慮事項は、子供が初めて妹を抱き抱えているのを見る喜び、騒々しい大きな家族の集まりに参加すること、子供の面倒を見る人の心配をしないで楽しい休暇の予定を考えられるかどうか、こうしたことに比べるとあまり説得力がなく、客観的過ぎるものになってしまう。結局はそれぞれの瞬間に本当に適切であったかどうかを感じることになるのだ。
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