2019年5月12日日曜日

デカルトの二元論が精神衛生に与えた影響


かつて精神障害は正す必要がある「間違い」だとは考えられていなかった。デカルトが登場する前は心理的苦痛というのは外の世界とつながったもので、周囲の環境についての何かが現れたものと理解されていた。


aeon
James Barnes
10 May, 2019

ルネッサンスが終わりに向かっていた時代、西洋の精神界には認識論的と形而上学的に根本的な変化が訪れていた。ニコラウス・コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、フランシス・ベーコンらによってキリスト教上の教義と自然界の支配に関して深刻な問題が提起されたのだった。ベーコンの論によれば、自然界は今やもっぱら動力因(外部効果)によって理解されるものであるという。自然界に関するあらゆる内部的な意味または目的(形相因あるいは目的因)は余分な要件であるとされていた。自然界とは動力因に関する用語に於いてのみ予見され統制されるものであって、そこからはみ出した自然の概念でだけでなく、神そのものも事実上不要なものにされる可能性があった。

17世紀、ルネ・デカルトの実体二元論はここで提起されていた問題を見事に解決するものだった。「神の思考」が自然の内部にあると理解されていたそれまでの「考え」を、実証科学の進撃から救い出して隔てられた安全な領域である「心」の中に撤退させることに成功した。一方では神に適切な次元を維持し、他方では「コペルニクスとガリレオのために知的世界を安全にすること」に役立ったのだと、アメリカの哲学者リチャード・ローティが著書「哲学と自然の鏡(1979)」の中で綴っている。神の本質的神性が守られたのと同時に、実証科学には仕組みとしての自然を支配する何か不信心でそれ故に自由な領域としての立場が与えられたのだった。

このことによって、自然はそれ自体の内部的性質が枯渇して冷淡で無価値な法則の下にある目も耳も持たない装置となる。人類はその無機質な世界と向き合うことになり、生き方、生きる意味や目的としての精神を投影できるのは空想の中だけになった。この幻滅した世界観はこの後に続く産業革命の前段階に起こり、ロマン主義者たちは強力に抵抗を試みたのだった。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは著書「言葉と物(1966)」の中で、これを「エピステーム(単純に言って『思考の枠組み』)」の変換として記している。フーコーは、西洋の精神は「類似性と相似性」に特徴づけられていたと述べている。このエピステームの下では、世界の知識は(彼が「世界の散文」と呼ぶように」、参加と共通性から得られたものだった。そして、精神は本質的に外向的なものであり、世界と関わるものだった。しかし、心と自然が分離されてしまうと「自己同一性と相違性」が西洋的精神の中心になった。現在主流になっているエピステームは、ローティの言葉を借りれば「対応としての真実」と「表現の正確性としての知識」にのみ関係付けられるものだという。こうした精神は本質的に内向的なものであり、世界とはつながりを持たない。

しかし、フーコーはこの変遷はそれ自体が入れ替わったわけではなく、むしろそれ以前に経験してきた形態の「他人化」が構成されたのだと主張する。結果として、その経験的および認識論的側面は経験としての妥当性を否定されただけではなく「間違い」となったのだった。それ以降、非合理的な経験(「客観的」な世界に正確でない対応をする経験)は、無意味な間違いとなり、その間違いを永続化させることになった。ここにフーコーは現代の「狂気」の概念の始まりを見たのだった。

デカルトの実体二元論は当時の哲学界を制したわけではなかったが、西洋ではデカルトの思想が導いた幻滅した分断の影響は依然として強い。私たちの経験は、デカルトによって具体化された「心」と「自然」の分離によって特徴づけられたままになっている。それを代表する人たち、私たちが経験主義的唯物論者と呼ぶ立場の人たちは、学術界で優位をとっているだけでなく、日々の生活の中で私達自身と世界の関係の前提として主流になっている。これは特に精神障害が起きた場合に明らかになる。


一般的な精神障害の概念は「間違い」の詳細な説明に過ぎず、いかなる意味も影響も持たない唯物論的な世界に関係した「内部的な機能不全」として言語化されている。これらの病気は精神薬理学に基づいた薬物による治療か、患者に世界の「客観的な真実」を再発見させることを意図した治療が施される。こうした考え方や治療法は単純化しすぎているだけでなく、大きく偏っている。

このように非合理的な経験を「正常化」することに価値があるのは確かだが、これには大きな対価が伴う。ある人の非合理な経験を他の人の本質的な価値や意味の下で消去することによって行う介入は(行う側の範囲でのみ)機能するものだ。こうした経験は、その人が抱いている可能性のあるあらゆる世界観から切り離されるだけでなく、周囲に対する作用や責任からも切り離されることになる、それは正すべき間違いとされてしまうからだ。

以前のエピステームの時代、心と自然が分離される前は、非合理な経験はただの「間違い」とは見做されなかった。非合理な言葉は合理的なものと同じくらい、場合によってはそれよりも更に意味のあるものと捉えられていた。自然によって吹き込まれた言葉の意味と韻を表し、苦しみが改善する過程で彼ら自体が意味深長な存在になっていた。こうした経験を積んだ世界には「非合理」を受け入れるための土壌、指針、容器が備わっていた。しかし、こうした重要な超自然的存在は、自然の内的傾向への撤退と「自己同一性と相違性」への移行と共に消滅してしまったのだった。

私たちが向き合っている無反応な世界は、私たちの心の中以外での経験を意味のあるものにしようとはしてくれない。仕組みとしての自然はこのことには無力である。私たちの心はかつてその源として存在していた今は空となった存在に固執したままになっている。私たちの心の外の経験を意味のあるものにしようとしてくれるものとして、私たちが今持てるのは運がよくてもセラピストと両親くらいで、それも損失の影響の大きさを考えると実際には殆ど不可能な仕事である。

しかし、私は単に過去に「回帰する」必要があると主張したいわけではない。反対に、心と自然が分離したことは、計り知れないほどの進歩の根幹を成していった。いくつか例を挙げれば医学や技術の進歩、個人の権利と社会正義の実現の根底にあったものである。またそれは、自然の中に内在する不確実性と流動性に束縛されることから私たちを守るものでもあった。そして私たちが自然に対して実証科学的な制御が可能になったように有る種の全能性をもたらした。そして私たちの多くは、それによってもたらされた財産を受け入れて積極的に消費している。

しかし、この歴史が「直線的な進歩」であり弁証法的なものであったことは強調してしすぎることはないだろう。精神と自然が統一されていたことが物質的な進歩を妨げていたように、物質的な進歩は精神を退化させることになった。もしかすると、この振り子の新しい揺れを主張する時が来ているのかもしれない。特に目立つものだけを挙げても、薬物使用の劇的な増加、アメリカやイギリスなどで10代の「精神衛生危機」が報告され自殺率が上昇していることなど、おそらく実際に機は熟している。

ではそれが何を意味しているのだろう?いくつかの分野では「汎経験的」で理想主義的傾向を持った理論が再燃している。自然に対する疎外を止め大きな結びつきを戻して新しい何かを創造することに広く関心が持たれているのだ。これは経験主義的唯物論の中で主観的経験を説明しようとする試みが殆ど失敗に終わったことを理由にしている(主にオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」と称したものによる)。形而上学は「死んだ」という考えは、実際に一部では重要な主張として受け止められている。カナダの哲学者エヴァン・トンプソンは最近Aeonにその視点に立って記事を書いている。

「間違い」としての精神障害は経験主義的唯物論者の形而上学とそれが作り出すエピステームによって増減するものであることを覚えておかなければならない。それゆえに、私たちはこうした理論と同じ用語で精神障害の概念を再定義し始めることを正当化できるかもしれない。心理療法の理論と実践には決定的な変化が起きていて、個人の部分や構造を変化させることから離れ、治療のための出会いそれ自体が改善へのプロセスなのだという考えに向かっている。ここでは「客観的現実」における正しいか正しくないかという判断は意味を失い始めていて、開かれた有機的な精神が再び注目を集めている。だが、形而上学は存続し続けている。私たちは究極的には精神障害について現在の状態の範囲内だけでなく、形而上学レベルで考える必要があるのだろう。

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