2019年8月31日土曜日

「ピーナッツ」のパラドックス


チャールズ・M・シュルツが描く子供たちは大人びていて残酷で冷笑的だ。それでいて彼らの存在は子供文学の中では最も説得力がある。


The Atlantic
BRUCE HANDY
AUG 29, 2019

漫画「ピーナッツ」に登場する子供たちは、「若草物語」のマーチ姉妹やトム・ソーヤーと並んで、アメリカ文化を象徴する子供たちだ。だが彼らは本当に子供だろうか? 大卒の大人でもライナスの博識には舌を巻くことがある。ライナスはドストエフスキー、オーウェル、そして使徒パウロの言にまで精通している。シュローダーはピアノでベートーヴェンを演奏することを成業としているし、ルーシーは精神科医として副業を営んでいる、そしてサリーはある話の中で「中流階級の道徳」に対して怒りの声を上げている。そして、殆どすべてのキャラクターが自らの感情をあり得ないほど明確に表現している。これらは「ピーナッツ」に登場する子供たちが不自然に大人びている部分のほんの一部だ。

作者であるチャールズ・M・シュルツはチャーリー・ブラウンやライナスやルーシーをを普通の子供のように話したり行動させるために作り出したわけではない。彼は漫画を面白くするために、そして深遠な残酷さを伴った人生劇場を演じてもらうために彼らを作り出した。現実的かどうかはともかく、シュルツが中心に据えたのは子供たちであり、最も熱心な読者も子供たちで、子供時代の私自身もその中に含まれている。私は、他人の不幸を笑ってしまうという人間の自然な傾向を恥じ入ることを知らなければならない年代の子供たちが、ピーナッツの無慈悲さをその代替として楽しんでいるのではないかと考えている。私自身のことを考えてみれば、ドストエフスキーやベートーヴェンについてはともかく、ジョークの殆どはシュルツの含意(大人も他人の不幸や失敗を笑うことを好む意味など)の全てではないにしてもかなり早い段階で理解できていた。この漫画の主題が子供の関心事であることも役立っている。友情、ペット、野球、凧揚げ、指しゃぶり、校庭での衝突などである。シュルツは子供たちの舞台を用意して、その中で書き上げていった。

「ピーナッツ」の中には子供向けらしい知恵も見られる。1950年に連載が開始され、今年の10月にはライブラリー・オブ・アメリカで記念行事が予定されているこの漫画は時々寓話のように機能している。少し目を凝らしてみれば、「ピーナッツ」のキャラクターたちは「イソップ物語」に出てくるロバ、子羊、オオカミ、ライオンのように典型的な存在である。オオカミがチャンスさえあれば必ず子羊を食べようとするように、ルーシーはチャンスさえあれば必ずチャーリー・ブラウンが蹴ろうとしているボールを引っ込める、これがオオカミとルーシーの性質なのだ。禁断のシャーデンフロイデは別にしても、この漫画が子供の頃から私を捕らえて話さないのには、伝統的なおとぎ話が子供たちを魅了する方法に通じたものがあるに違いないと私は考えている。こうしたものは、実際の不安を誇張しグロテスクに見せることで、成長して世界の中に居場所を見つけることに対する子供たちの無意識の恐怖を和らげるのに役立っている。

だが、「ピーナッツ」のストーリーは一般的なおとぎ話とは対極に位置するものだ。おとぎ話は通常、どんなに厄介なものであれ良い方が勝って終わる。ドラゴンはやっつけられ、魔女はオーブンに押し込まれ、愚かな正直者が幸せを掴む。シュルツの世界には勝者は誰もおらず全員が挫かれてしまう。それは恋愛模様だけのことではなく、野球場でも教室でも、スヌーピーが特に気にしている第一次世界大戦の戦場でも同じことだ。「幸せとは暖かい子犬である」(魅力的だが、おそらく希望であって原則というほどではないだろう)にもかかわらず、「ピーナッツ」によく出てくるセリフは「チェッ!」「やれやれ!」「信じられない!」「ギャア!」である。チャーリー・ブラウンは今も昔も常にダメなやつであり、ルーシーは永遠に意地悪なままで、彼女の楽しみはチャーリー・ブラウンにささやかな屈辱を与えることである。ライナスはハロウィンにカボチャ大王に出会うことはなく、ピッグペンはたまに綺麗になってもそれは1コマか2コマの間だけでまたすぐ不潔になる。

シュルツの世界の中で正義は現実性と同様に本筋から外れている。むしろ彼は、コマからコマへ、一つの話から次の話へ進む度に登場人物たちを虐げているようにも見える、それはまるでカミュやサルトル、ロバート・ジョンソンのような人々が子供演劇に登場しているかのようだ。「ピーナッツ」の中で私のお気に入りの4コマ漫画の1つは1954年に書かれたものだ。チャーリー・ブラウンが道路の縁石に座っている。最初のコマでは数滴の雨が降っているだけだが、4コマ目では豪雨になっていてチャーリー・ブラウンはまだ同じところに座っている。純粋に視覚的な漫画だが、最後にチャーリー・ブラウンがオチの一言を述べる「雨は常に愛されない者の上に降る!」。 シュルツは面白いものを書こうとしているのだろうか? 私はあまりそうは思えない。「魅力的な憂鬱」がテーマになっているのかもしれない。絵と構図の面白さが私がこの4コマを気に入っている理由だ。シュルツの絶妙な線使いがチャーリー・ブラウンの微妙な心境の変化を表している。彼は座る、そして雨が降っていることに気づく、まるで空に疑問を投げかけるように見上げる、そして豪雨と無関心な世の中の自分の惨めな立場の両方を項垂れて受け入れる。



これを読んだ子供たちはこの侘しさから何を感じ取るだろう? ある段階では、私はチャーリー・ブラウンが受ける過酷な苦難に慰められていた。自分の不安の避雷針のように感じていたのだ。カタルシスと最悪のシナリオとしての「ピーナッツ」から受ける笑いは、幸福に終わるおとぎ話で安心を得ることの代わりになっている。私はチャーリー・ブラウンを気の毒に思っていたが、実はそれほどもなかったことを言わなければならない。ワイリー・コヨーテ、エルマー・ファッド、トリックス・ラビットのような他の漫画に出てくる、あまり情動的でない負け犬たちについてと同様だった。生まれつき皮肉屋で宗教を受け付けない子供だった私は、シュルツのニヒリズム(虚無主義)によって確認できる何かを見つけたのかもしれない。ニヒリズムというのが強すぎる言葉だとは思わない。私はシュルツが敬虔なキリスト教徒であったことを知っているし、「ピーナッツ」の中に出てくる災難は宗教上の「救済」のようなものだと主張している人がいることも知っているが、私自身はそれを受け入れる確信はない。私がシュルツから感じ取ったことは、人生は大変だということだ。人生は難しく、理解できない。正義などというのは遠い言葉だ。幸福は3コマ目と4コマ目の間に蒸発してしまう可能性のあるもので、こうしたもの全てに対する最善の対応は笑って動き続けながら、常に危難に備えておくことだ。

私は多かれ少なかれ今だにその哲学を保持している。だが、おそらく以前よりは少なくなってきた、私は年と共に心が穏やかになってきている。ついでに言えば、私も父親になっているので子供たちがいじめられたり、意地悪をされたり、からかわれたり、疎外されたりしているのを見ると少し気分が悪くなる。優しい親の立場になってシュルツの世界を再訪することは、子供の頃には怯えていたグリム童話を読み直すのと同じくらい目を見張るようなものになる。グリム童話と比べるとシュルツの場合はより感情的な経験だ。そして今、私はシュルツのサディズムに時々落胆することがある。これをサディズムというのも厳し過ぎる言葉だとは思わない。シュルツ自身がかつて認めていて、あるいは自慢すらして「おそらく私は最も残酷な4コマ漫画を書いているでしょう」と述べていた。彼は、自分が神として振る舞う世界の闇の部分をよくわかっていた。

古い単行本の「ピーナッツ」を読み返していて、1964年のバレンタインデーに書かれた話に私はショックを受けた。チャーリー・ブラウンはいつものように校庭のベンチに1人で座ってランチを食べている。「例の赤毛の子がいるぞ…。バレンタインのプレゼントを配ってる」と彼は最初のコマで話している。2コマ目では、彼は身を前に乗り出して恥ずかしい期待の気持ちを顔に表している。「彼女は友達全員にプレゼントを配ってる… 1人1人に手渡してる… 配ってる… まだ配ってる… 」。3コマ目でチャーリー・ブラウンは少し仰け反って、肩を落として項垂れている。「あの子は全部配り終えた… あれが最後の1つだった… あの子はあっちへ歩いていく… 」。4コマ目にチャーリー・ブラウンは別な方を向き、泣きそうな顔をしている。その彼の最後の一言は単純で皮肉に「ハッピーバレンタインデー!」というものだ。前述の大雨の4コマは、少なくとも「雨の日」とか「月曜日」のような憂鬱さによって和らげられていたが、ここでは少しの戯れもなく、全く諧謔になった部分がない。読者が普通に期待する面白さを超越した4コマ漫画の手法に殆ど爽快さのようなものすら感じる。



同じ様に1963年の8月には数回にわたって野球についての無慈悲な話が続いている。チャーリー・ブラウンは彼の万年最下位のチームを率いてチャンピオンシップ・ゲームでピッチャーを務めている(このチームがチャンピオンシップ・ゲームに到達した時に起こったと推定される奇跡については説明されていない)。この時はどうしようもないホームランを打たれたり、簡単なフライを落っことしたり、チャンスに三振したりするのではなく、チャーリー・ブラウンのボークでサヨナラ負けしてしまう。ノー!ギャア!! チームメイトたちはシュルツが好んで描くリンゴを逆さにしたような口だけになる顔で天を見上げて泣き叫んでいる。セリフのない4コマ目ではまだマウンドに立っているチャーリー・ブラウンにいくつもの帽子とグローブが投げつけられている。それだけだ。もはやオチのセリフもなく、悲しみの表現もない、ファスビンダー監督の映画の最後のように単に屈辱を味わっただけだ。私は子供の頃、この漫画を読んで笑っていただろうか? もしそうなら私は酷薄な子供だったに違いない。

仮にシュルツの描くキャラクターたちがもっと現実の子供に近いものだったら、彼の描く残酷さは好奇心を刺激するとか時に不快になるというものを超えて耐え難いものになっていたかもしれない。「チャーリー・ブラウンのクリスマス」のアニメがある。その中で、チャーリー・ブラウンが小さくておかしなクリスマスツリーを持ち帰った時に、ルーシー、パティ、シャーミーたちが彼を非難するシーンは、その声が本当の子供たちによって演じられているせいで特に聞くのが辛かった。それでも私は「チャーリー・ブラウンのクリスマス」が好きだし、「ピーナッツ」の全てを愛している。だが、年月を経て、漫画ではなく私の方が変わったせいで、ちょっとほろ苦さを感じるようになったと言わなければ嘘になる。

最後にもう少しポジティブなことを記しておきたい。大人になった私は、「ピーナッツ」から子供の頃にはわからなかった前向きなものを感じ取ることができた。私の娘ゾーイが生まれたとき、妻の叔母がカードを送ってくれて、そこにはゾーイが情熱(passion)を持つように、という願いが書かれていた。最初、私はその意味がよく理解できなかったのだが、子供が成長する姿を見ていると、例えばサッカー、読書、フルート、演劇、社会正義、など何かに興味を持った子と、何にも持たない子とでは違いがあることに気がついた。こうした興味を持つことは方法は稚拙でも、自分の人生にある種の意味を見つけることなのだということがわかり、叔母の贈り物の意味もわかったのだった。

シュルツ自身の漫画に対する情熱を考えてみれば、彼はこのことを深く感じていたのだろう。彼は他の有名漫画家とは違ってアシスタントを起用したことはなく、「ピーナッツ」は彼の想像力によって進化していった。初期の主な登場人物は、チャーリー・ブラウン、シャーミー、パティ、バイオレットだった。チャーリー・ブラウンがジョーカーとして実用的な存在であることを別とすれば、他のキャラクターたちは個性を持っていなかった。彼らは互換性があり、視覚的な多様性の要求に基づいて起用されていた。しかし、シュルツはすぐに登場人物に肉付けを始め、それぞれ一風変わった具体的な存在になって動いていく。ピアノの天才でベートーヴェンが大好きなシュローダー、絶え間なく口うるさいルーシー、親指をしゃぶる哲学者のライナス。そして、シュルツがチャーリー・ブラウンを中心にして世界を回して、彼を自分の分身として扱い始め、チャーリー・ブラウンの個性に深みが増して色付けがされた。彼は初期のビートルズの如く新しい存在として登場し、10年かけて陰気で問題を抱えた素のままの存在として洗練され、壮麗な存在として、受け入れられた。

仮に、「ピーナッツ」のキャクターたちの中で大人になった時に幸せを掴む可能性が高い人を1人選べと言われたら、私は(子犬の種類には関係なく)チャーリー・ブラウンを選ぶことに躊躇はない。彼は苦しみの中に「救済」を見出しているだろうか? おそらく彼は自分の失敗を深く感じ入り、苦しんでいる。それでも彼はルーシーの抑えるボールを蹴ろうとし、凧をあげようとし、次の試合に登板し、バレンタイにプレゼントを受け取ることを望んでいる。彼がダメなやつだというなら、その理由の一部は彼がそのことを気にしているからだ。自信の無さは責められることではない。彼を創造した人と同じように、チャーリー・ブラウンには情熱と粘り強さがある。もし彼が現実に存在していたなら、私は私自身にチャーリー・ブラウンはきっと大丈夫だと言い聞かせていると思う。

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