2019年6月3日月曜日

忘却の終焉


ソーシャルメディアによって過去から逃れることが不可能になる。


Vox
Sean Illing
Updated May 25, 2019

夢に見ていた仕事に就くために、面接の場まで漕ぎ着けた場合を考えてみよう。

面接は上手く行っている、正式なオファーを貰うまでもうすぐだ。しかし、最後の瞬間に全てがご破産になってしまう。もう少しであなたの上司になるはずだった面接官が、あなたのFacebookアカウントに掲載されている大学時代の恥ずかしい写真を発見してしまったのだ。彼はそれを見てこの地位にあなたは相応しくないと判断したのだった。

このシナリオはケイト・アイクホーンが自身の著書「The End of Forgetting(忘却の終焉)」という本の中で警告しているものだ。彼女はニュースクール大学の教授で、文化とメディアについて研究している。

彼女は、現在のデジタル世界では全てのものが記録され、タグ付けされていて、どんな時でもあらゆるものがそこに現れるようになっていると述べている。私たちは忘れるという能力を失ってしまった。私たちは自身の過去から距離を置くことができなくなってしまったのだ。

私たちの生活はどう変化するだろう?このことは新たなアイデンティティを確立したり、新しい考えを試行錯誤する可能性を喪失させてしまうことを意味するのだろうか?何もかもが本当の意味で消すことができない世界では、過去に犯した罪をお互いに許し合うことは何を意味するのだろう?

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ショーン・イリング:デジタル技術、特にソーシャルメディアによって忘れることが難しくなっているというのはどのようなことなのでしょう?

ケイト・アイクホーン:極めて多くの情報が存在しているのだから、私たちはこれまでになく多くのことを忘れるようになっているのだと主張する人もいますし、オンライン上にあらゆる情報があるので、私たちは記憶する必要がなくなったのだと主張する人もいます。

これらはおそらく正しいでしょう。ですが、同時に私たちは何かを失っています。私たちが未来に何を携えて行くのか管理することができなくなっているのです。

紙に印刷する文化の中では、高校時代の恥ずかしい写真やアルバムなどを取って置くかどうか自分で選択することができました。更に重要なことは、全てのものを取って置いたとしても、それを誰に見せるか見せないかは自分で選択することができました。個人的に私はこれまでの人生のどんな写真も持っていません。仮にそうしたものが外に広まれば、取り戻すには多大な労力を要するでしょう。まあ誰かが見たがるとも思えませんが、これで良かったと思っています。

ですが、写真がデジタル化したことで私たちは以前よりも多くの写真を扱うことになりました。特にソーシャルメディア上の写真は自分の管理下から離れてしまいます。私の青年期が1980年代ではなく2000年代にあったとしたら、私のどんな写真が出回っていて、それがいつ突然現れるかよくわからなくなっていると思います。そしてこのことは、私たちのように印刷文化で青年期を過ごした人は危険から免れているという意味ではありません。

古い時代に印刷された高校の卒業アルバムのようなものもデジタル化され、顔認識されて出回っています。古い時代の写真も検索で出てくるようになっていきているのです。

何が変わったのでしょう?この10年間のテクノロジーの進歩によって、過去の何かが現在の邪魔をする可能性は増幅されています。私たちはその結果に直面し始めたばかりです。


忘れることが不可能になる、あるいは過去から逃れられなくなると私たちに何が起こるのでしょう?

私は心理学者ではありませんしこの点について定量的に研究を進めているわけではないことをご理解頂いた上で、私は文化とメディアに関する研究者として、その疑問についてより逸話的に考えてみたいと思います。例えば、子供の成長について考えてみましょう。

ほとんどの人は成長過程で恥ずかしい思い出を持っているものですし、特に気まずい瞬間というのは簡単に思い出せるものです。そうしたものの多くは後から見れば面白いことで、特に犯罪的なものではありません。例えば、学生時代に襟足だけを伸ばした変な髪型にしていた人は今の同僚にその当時の写真を見られたくはないでしょう。ですが、もっと深刻な懸念を持つ人もいます。

LGBTQの若者たちについて考えてみて下さい。多くのコミュニティに於いて、家を離れて過去を振り捨てなければならない場合は今でも存在します。

つまり、過去を忘れて現在に新しい自分自身を再発明するために解放する自由があるはずなのです。成長することの大部分は繰り返し自分自身を再発明することです。そしてそのためには半年前、3年前、10年前の自分を忘れることが必要になります。

ですから、忘れることは究極的には自由についての問題なのです。これが非常に重要なことだと考えています。


成長期に楽しいことの1つは、新しいアイデンティティを作り上げて試したりして試行錯誤する自由です。しかし、もし全てのことが石版に刻まれて記録されているなら、全ての馬鹿げた行為や失態がデジタルの影として自分について回るなら、その自由はどうなってしまうのでしょう?

この変化がもたらす結果として多くの人が若いうちから自己抑制を始めてしまう可能性を指摘する人もいます。確実なことを言うのは難しいですが、私がこの本を書き上げたのは2年前のことで、その頃から実際に未来にどういう影響があるのか見え始めていると思います。

良い例は新しく下院議員になったアレクサンドリア・オカシオ=コルテスの初登庁の日のことです。当然のようにオンライン上では何か恥ずかしいもの、彼女の信頼を傷つけるようなものを探そうとしている人たちがいました。それで何が見つかったでしょうか?彼女が大学時代に友人たちとダンスをしている動画が見つかったのです。

その動画自体は全く当たり障りのないもので、彼女自身もこのことに非常に上手く対処していました。ですが、この出来事は今後起こることを示唆していると思います。将来的にはこの種のデジタル追跡が更に頻繁に使われるようになり、このことで悪影響を受ける人も出てくるでしょう。


もう1つの例としてヴァージニア州知事のラルフ・ノーサムのケースがあります。彼については1984年に撮られた顔を黒く塗った写真が取り上げられました。こうしたものは多くの点で例外的ではありますが、将来的に起きそうなことが垣間見えています。

ノーサムのケースや昨秋にあったブレット・カバノーに対する審問のようなものを今後頻繁に見ることになると思います。もちろん、ノーサムやカバノーは印刷の時代で育った人たちですが、政治家の高校の卒業アルバムに人々が突然熱中するようになったことは偶然だとは思いません。卒業アルバムの類の多くのものが現在はデジタル化されています。そうした過去のものについて、特に公の場に関わる人物については見ておくべきものだという考え方が強くなっています。

ここで挙げた政治家の例で最も重要なのはオカシオ=コルテスのケースだと考えています。彼女は屋上で友人たちとダンスしていただけです。ノーサムは顔を黒塗りしていたとされていて、カバノーは同僚の1人について卑猥な発言をしていました。このことは、対処が必要になる過去の出来事の規模というのは個人によって大きく違っていることを示しています。


それが恐ろしいところです。一部の悪意を持った人たちの中には、過去の写真やコメント、動画を意図的に本筋から外して人々を毀損するために利用することに並外れた能力のある人たちが存在します。ノーサムやカバノーのような人は調査に値するのかもしれませんが、それが如何に手に負えないものになるのかは明らかなことです。

仰るように、すべての人が同じように過去に影響を受けるわけではありません。公の立場にある人のリスクは十分明白になっています。それでは、公の注目を集めているわけではない一般の人たちはこの問題をどのように捉えたら良いでしょうか?

公職にある人たちは一般市民よりも厳しい基準で見られるべきだというのは正しいと思いますが、この変化によって既に影響を受けているのは公の立場にある人たちだけではありません。

大学の入学担当者はオンラインで入学希望者たちのプロフィールを見ていますし、事実を確認するためにソーシャルメディアのアカウントを掘り下げて、犯罪性のある情報がないか確認したりしています。企業の採用担当者も同様のことを行っています。10代の子供たちのオンライン上の足跡を浄化するためにお金を掛ける親たちもいます。大学に関するアドバイスを行う会社は増え続けていて、そうした会社はオンラインの身辺を綺麗にすることも請け負っています。

将来的には、この業界は更に成長するのではないでしょうか。自分の子供のオンライン上の足跡を管理することができる経済的な余裕がある人たちは有利な立場に立つことになります。私は他の全てのものと同じように、オンライン上で忘れられることはある程度まではお金で動くものになると思っています。


あなたは著書の中で、私たちは社会として次のような質問に答える必要があると指摘しています。過去に犯した過ちによってその人を判断することはどの程度公平なことなのか?私たちは何を許すことができるのか?その境目はどこにあるのか?

1960年代、心理学者のエリク・エリクソンはいくつか本を出版しましたが、その中で、多くの社会に於いて若い世代の人々に対しては「心理社会的モラトリアム(猶予)」と彼が呼ぶものが認められていると書いています。10代の若者たちには経験ではなく結果について猶予が与えられるべきだと考えている人が多いことをエリクソンは記しています。

このことはアメリカ以外の多くの国で、年少の犯罪者の名前を公表しないことについて非常に厳しい規制がある理由になっています。その根本原理は、若い人たちは間違いを犯す余地が与えられるべきで、それが重大な間違いであっても生活を続けることができるようであるべきだというものです。

経験ではなく結果に猶予が与えられることが、全ての人に同じ影響を与えるものではないことは主張しておかなければならないでしょう。そして、多くのアフリカ系アメリカ人の若者たちは、アメリカの白人の若者たちと同程度に結果に対して猶予を保証されてはいる状況ではありません。

とはいえ、理想としては、全ての若者たちは人生の中で実験をすることや失敗をする時間を持つべきで、その結果について大人と同じ扱いをするべきではないということには殆どの人が賛同してくれるのではないでしょうか。

そしてデジタルの分野では、この理想を実現するのは遥かに困難なことになるのです。


今の瞬間に注意を払って今の瞬間に生きるとはどういうことなのかを考えてしまいます。忘却の終焉というのは、私達が自身の人生で現在に存在することの終焉でもあるのでしょうか?

良い質問です。私はおそらくあなたは正しいと思います。2009年から2011年にかけて、私は少しだけFacebookを利用していました。ちょうど引っ越したばかりで古い友人たちと連絡を取り合うのに良い方法だったのです。ですが、Facebookによって私自身が過去に引き戻されていることに気づきました、それも近い過去だけではありません。

数ヶ月の間に、20年以上連絡をとっていなかった人が突然私の「友達」になりました。私は自分が徐々に現在ではなく過去の中に存在するようになっているように感じて、最終的にそれを理由にFacebookのアカウントを無効にしました。私はその意味で過去に生きることは不安なことだと気づいたのです。

このことはFacebookのようなサービスに対して私が最もよく聞く不満です。私たちは過去に惹かれるものかもしれませんが、日常的に過去の世界に生きたいと考える人は殆どいないでしょう。それは良くても些細な気分転換のようなもののはずなのですが、最悪の場合には過去が私たちの現在従事している生活や社会関係の妨げになる可能性があるのです。


特に新しいデジタル世界との付き合い方に苦労している親たちや若い世代の人たちに対してはどうすることを勧めたいですか?

親としては、何かしらのガイドラインを作成することはできますが、子供たちがオンライン上でそれに従ってくれることを保証はできません。私は10代の子供2人と一緒に暮らしています。こんな主題の本を書いているにも関わらず、子供たちは私のアドバイスや忠告を常に尊重してくれていますと言い切ることはできません!

何にせよ、差し迫っているのは自分の子供達の写真を過度にソーシャルメディアに共有しようとする親たちの問題です。こうした習慣、「シェアする(共有する)」という行為は、将来的に親たちを悩ませる問題として跳ね返ってくるはずです。この先10年後には、成長した子供たちとその両親との間で、親たちが過度にソーシャルメディアで公開した写真について法的論争になるケースが増えると予想しています。今成長している子供たちが成長と共に過去のことを忘れ、また、他の人からも自身の過去を忘れてもらう権利が危機に瀕しているのです。


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