2019年6月16日日曜日

欧州でもアジアでもイスラム嫌悪は何の解決にもならない


ハンガリーにもミャンマーにも「イスラム教徒の人口」問題は存在しない。


Al Jazeera
Ibrahim Kalin
15 Jun 2019

6月5日、ミャンマーの国家顧問でノーベル平和賞受賞者であるアウンサンスーチーは珍しく国外に外遊にでていた。彼女はハンガリーを訪れ、同国のオルバン・ビクトル首相を訪問した。会談の後、ハンガリー政府は次のような公式声明を発表した。「2人の指導者は両国のそれぞれの地域(東南アジア、ヨーロッパ)における現在の最大の課題の1つが移民問題であることを強調した。両首脳は両地域で人口が継続的に増加しているイスラム教徒との共存の問題の出現を述べている」

アウンサンスーチーとオルバンが「増え続けるイスラム教徒人口」への懸念を表明するとは奇妙なことだ。どちらの国でも実際にはこうした「問題」は存在していない。ハンガリーには5,000人を超える程度の少数のイスラム教徒しか住んでいない。過去数年の間にこの地を数十万人のイスラム教徒の難民が通過し、中にはここに留まることを希望した人もいたが、政府が拒否したのだった。

ミャンマーもまた「イスラム教徒人口の増加」問題は抱えていない。実際、ミャンマーのラカイン州には何世紀もの間、数十万人が暮らすイスラム教徒のコミュニティが維持されていたが、過去数十年の間に、ビルマ人と仏教徒の国家主義者による「イスラム教徒は最近住み着いた『移民』である」という根拠のない主張によって国を追われている。

このように、その土地の現実と歴史的な事実があるにも関わらず、アウンサンスーチーとオルバンは自分たちの国が「イスラム教徒の移民」による脅威に晒されていると主張し続けている。

市民の自由と人権の提唱者として長い間称賛されてきたスーチーは、イスラム教徒が多数を占めるロヒンギャに対する前代未聞の迫害運動を進めたミャンマー軍を擁護する立場をとっている。ラカイン州で実行された組織的な民族浄化行為は、何千もの男性、女性、子供たちを残忍に殺害し、2016年には隣国のバングラデシュへ約70万人が避難する事態になっている。

そして、彼らのうちまだミャンマーに残っている人々は依然として暴力の脅威と様々な権利侵害に直面している。10万を超える人々が、海外からの訪問者やメディアが入ることを許されないキャンプに強制的に住まわされている。

アウンサンスーチーの政治に対しては仏教界の中から多少の反発が存在している。2017年、仏教指導者の1人であるダライ・ラマは、ロヒンギャに対するミャンマーの残忍な政策について尋ねられ、「彼らは仏陀のことを思い出すべきだ。そのような状況では仏陀は間違いなく貧しいイスラム教徒を助けたはずだ。私は悲哀を感じている、とても悲しい」。しかし、それ以降もロヒンギャに対する暴力は続いているにも関わらず、彼はこの問題について沈黙している。

ミャンマーでイスラム教徒が多数を占めるロヒンギャに対する迫害を阻止するための対策が殆ど何も取られていないのと同じように、8年もの間、血なまぐさい戦争を続けるシリア問題の根本的な原因への対処も多くのことは行われていない。

2015年、ヨーロッパの指導者たちは怒れる自国の有権者を宥めるのに熱心で、難民がヨーロッパに流れてくるのを止めるために、負担をトルコに押し付けるためトルコとの協定を推し進めた。トルコは現在、他国からの援助が殆ど無い状態で、およそ350万人のシリアからの難民を受け入れている。

シリア人は紛争が続く中で恐るべき割合で殺され続けていて、数十万の人々が国内で何度も避難を余儀なくされ、多くの人たちは安全のために国外に逃げようと試みて地中海の冷たい海に沈んでいる。それでもヨーロッパの人たちはシリア戦争を終わらせることに関心を示さず、リーダーシップも発揮せず、最優先の関心事は(イスラム教徒の)移民問題という状態である。

もちろんミャンマーでもハンガリー(とヨーロッパ各国)でも、最大の問題はイスラム教徒それ自体ではありえない。しかし、彼らを脅威として示すことは、社会の崩壊、経済の停滞、ポピュリズムの繁栄、極右運動、伝統的価値の失墜、根本的な政治の失策、といったイスラム教徒や他の少数民族のグループとは実質的に無関係な他の本当の問題から注意を逸らすための有効な戦略になっている。

古典的な価値観で決めつけて不安を煽り紛争を正当化することでイスラム教徒のコミュニティを利用する熱心な努力が行われている。イスラム教とイスラム教徒は、世俗主義者やユダヤ教徒、キリスト教徒と対立するものとして扱われるようになっている。彼らは新しい共通の「敵」にされている。右翼、左翼、リベラル、保守、福音派、その他多くの政治団体は、このイスラム教徒の「脅威」とされるものに同意する。

しかしながら、これは踏み込むのは危険な道だ。イスラム嫌悪はヨーロッパでもアジアでも問題の解決策にはならない。短期的にはポピュリストたちの目的に叶ったものになるかもしれないが、長期的には、少数民族に対する虐待行為や民族的、社会的混乱を招く可能性がある。

アメリカの学者アン・ノートンが鋭く指摘したように、カール・マルクスが19世紀に表した「ユダヤ人問題によせて」は、21世紀に於いては「イスラム教徒問題によせて」になっている。どちらのケースでも、ユダヤ人とイスラム教徒の価値観やヨーロッパで共存する能力が問題になっているわけではなく、むしろ、相互依存が強まりグローバル化した世界に於いて、彼らを平等な市民として、パートナーとして受け入れるヨーロッパの人々の能力についての問題である。

150年前、マルクスはヨーロッパに於ける自由、平等、博愛の誓いの実現はユダヤ人を受け入れることに懸かっているのだと正しくも述べている。今日のそれも、ヨーロッパ、アジア、その他何処でも、イスラム教徒を平等な人間として仲間の市民として受け入れることに懸かっている。

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