"Don't put that online!" has become a common refrain in families' social-media lives, writes @gabrielsnyder: https://t.co/xKJRSn82Hy— The Atlantic (@TheAtlantic) June 11, 2019
子供たち(と一部の大人)の「共有」の日々は終わりに差し掛かっている。
The Atlantic
GABRIEL SNYDER
JUN 11, 2019
最近、日曜日に自宅にいた時、6歳になる私の双子の息子の片方が遊んでいる姿はとても愛らしいものだった。だが、これは話だけに留めておいて、写真を載せるのは止めておこう。彼は、早朝からスーパーヒーローの完全なコスチュームを紙で制作していた。そして完成したそれを身に着けた時、私は21世紀の親らしく思わずスマホを彼に向けた。彼は即座に、そして断固として私に止めてくれと言ったのだった。「オンラインに載せたらダメだよ」
彼はデジタル共有全てを否定していたわけではない。その後、私の懇願に応じて彼の祖父母と従兄弟たちに見せることは許可してくれた。「見せて良いのは家族だけ」と彼は言っていた。後になって、私は彼に、なぜ写真をオンラインで共有して欲しくなかったのかもう少し聞いてみたところ、彼は「恥ずかしいから。友達でもない他の人達があれを見たり、何かで取り上げられたりしたら恥ずかしいよ」
この態度を「ナイーブなもの」として切り捨てるのは簡単だ。結局のところ、息子はまだFacebookが何かをわかっていないし、彼のインターネットについての知識の殆どは、本人によればTVアニメ「マジック・スクール・バス」に出てくる話に基づいた程度のものだ。しかし、彼はテクノロジーの存在とそれが彼の人生に与えうる影響に気づいている。Wi-Fiが落ちてApple TVでPixarの映画が見られなくなった時には動揺しているだけなのだが。
80年代に子供時代を過ごした私も、両親によるテクノロジー記録の餌食になっていた。母の周りには私の写真がたくさん残っている。だが、当時の私が耐えたものは、今の子供たちが受けている瞬きさえしないような監視の目のようなものとは異なるものだ。出生時から、もしかするとそれより前からの記録として、数ギガバイトにも及ぶ写真や動画がハードディスクやクラウドドライブに記録されている。親たちの多くは、子供たちがデジタル・アイデンティティとは何かを知る前から、子供たちのデジタル・アイデンティティを収集することの意味を考え始めている。技術的概念が進歩によって容易なものになっているとしても(私の子供たちは話したり読んだりできるようになる前からタッチスクリーンの使い方を知っているようだった)、彼らは私たちの20世紀脳に組み込まれているメディア形態に触れるのは困難なことのようだ。私たち家族が休暇中にホテルの部屋で、その時間にテレビで放送されている映画を初めて見た時、彼らはまず巻き戻しができないことに混乱し、コマーシャルによる中断に困惑して苛立っていた。(私たちは子供たちにYouTubeを見ることを許していない。もしYouTubeを見ていれば、そうした中断には慣れっこになっていただろう)
テクノロジーの変化というのは、新しい機能、性能、ビジネスモデルによって評価されることが多い。だが、人間がテクノロジーを使って何かをするということは、技術的に可能なことをするだけの話ではない。それは、文化的、心理的な雰囲気が交差したものでもある。私の息子は(まだ)あまりスマートフォンを使ってはいないが、彼はテクノロジーがどうあるべきか(彼に何かをもたらしてくれる)、そしてどうすべきでないか(彼の個人情報を流布する)についての態度を構築し始めている。確かに、その同じ日の後で、私たちが近所の新しいレストランに初めて行き、その時私は妻が食事を楽しんでいる写真を撮った。彼女はその時メイクをしていなかったことに抗議して、「インスタグラムには投稿しないで」と言った。だが、彼女はその新しいレストランに興味を持っていたご近所の何人かに共有するのは構わないと言った。
こうしたことから得られる最も明白な教訓は簡単なことなのかもしれない。私たちは電話を手放す必要があるのだ。しかし、私は同時にこのことを楽観的に捉えて文化的変革が進んでいる兆候として見ることも考えている。共有の時代は終りを迎え、私が両親の世代のディスコの時代を笑い飛ばしたのと同じように、いつか息子の1人が私の萎縮したソーシャルメディアへの投稿を見つけて、「インターネットに投稿しただけなんでしょ?何を考えてたの?」と聞いてくるようになることを期待している。
私がこう考える根拠の一つには、これが私の家族だけに起こっていることではないという事実がある。最近のデジタル上のトレンドはiMessageグループとEメールのニュースレターに関するものだ。世界で最も、その場の雰囲気、食事の内容、家族の写真をオンラインに投稿させたがっていたマーク・ザッカーバーグ(彼はかつて「それを社会的に当然のことにさせると決め、そのために動いていた」と話している)も今では「未来はプライベートにある」と結論づけている。
この20年ほどの間は、野性的な文化実験が行われていた時代だった。私たちの集団文化的習慣として恒久的に加わったと考えられているものの多く、例えばニュース、スポーツ、有名人について頻繁に短い意見を投稿し、子供、ペット、食事、日常生活の写真やビデオを世界に共有するようなこと、こうしたことが一般化したのはほんのここ数年のことだ。
1999年より昔の時代には、コンピューターに熱心な人たち以外にデジタル・アイデンティティを維持することを考えている人は殆どいなかった。そして、それを望んでいたとしても、その方法を知っていた人は更に少なかった。なので、私たちの文化に組み込まれているように見えるすべてのことは変化する可能性があると考えても想像力を拡張し過ぎているということにはならない。過去数年間、ソーシャルメディアによって爆発的に広まった習慣、YouTubeで生活をストリーミングする人、インスタグラムのインフルエンサー、激昂するTwitterユーザーたち、こうしたものは、シンプソンズに出てくるディスコステューが執着している胸毛と金のメダルのように、将来的には時代遅れで恥ずかしいものになるのかもしれない。
ソーシャルメディア界で最大の存在であるFacebookの役割について非常に価値のある議論が行われているが、それが私たちのメディアと民主主義に悪影響を与えているかどうかに関わらず、私は自分の子供達がFacebookのアカウントを持つことはないことを合理的に確信している。今この時点で、私は、ディスコがナイトクラブ、ダンス、コカイン、カジュアルセックスと共に終焉したように、Facebookや他のソーシャルメディアが消えてなくなると予想はしない。だが、私が未来についてよくわかっていないとしても、次のことはわかっている、子供たちは親たちがやっていたことをクールだとは思わないということだ。
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