2019年10月10日木曜日

科学界に於けるノーベル賞の不条理


この賞は科学事業の性質を歪め、歴史を改竄し、多くの重要な貢献者たちを見落とすことに繋がっている。


The Atlantic
ED YONG
OCT 3, 2017

2017年10月3日、物理学者のレイナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュの3人がノーベル物理学賞を受賞した。彼らが重力波、空間と時間の構造の歪みを発見したことが評価されたものだ。重力波を記録したレーザー干渉計重力波観測所(LIGO)プロジェクトを主導していたこの3人は、900万スウェーデン・クローナの賞金を分け合うことになる。おそらくそれよりも重要なことは、それぞれが今後の人生を「ノーベル賞受賞者」の肩書で生きることになることだろう。

だが、LIGOプロジェクトに貢献した他の科学者たちはどうなのだろう? この発見を記した論文には3ページに渡って科学者たちの名前が並べられている。「LIGOの成功は数百名の研究者たちによるものです」と、宇宙物理学者のマーティン・リースがBBCニュースで述べている。「ノーベル賞委員会がグループによる受賞を拒否したことで更に問題が大きくなっています。そして、実際に多くの科学研究がどのように行われているのかということに誤った印象を与えてしまっています。」

これはお馴染みの出来事の繰り返しだ。毎年、物理学、化学、生理学、医学でノーベル賞の受賞者が発表されると、この賞の選定は彼らの業績を評価する方法としては不条理で時代錯誤であるという批判が起こる。科学に敬意を表するのではなく、むしろ科学の性質を歪め、歴史を改竄し、貢献した多くの科学者たちを無視している。

ノーベル賞には確かに良い面もある。科学的発見は人類に果たす重要な役割として認識されるべきものだ。ノーベル賞のウェブサイトは教育的コンテンツの宝庫であり、出版される論文には欠けている多くの歴史的詳細で溢れている。どんなことでも過度に冷笑的に見ることは無作法なものだ。ノーベル賞は毎年科学に関して、アカデミー賞やエミー賞と同じような意味での期待感を齎してくれる。しかし、科学に関するノーベル賞は創設以来論争が耐えないということがこの問題の根深さを示唆している。

最初のノーベル医学賞は1901年に抗毒素を発見したエミール・フォン・ベーリングに与えられたものだが、彼の親しい共同研究者だった北里柴三郎には授与されなかった。1952年には抗生物質ストレプトマイシンの発見によりセルマン・ワクスマンに生理学・医学賞が授与されたが、実際にこの物質を発見した学院生アルバート・シャッツの存在は無視された。2008年には細胞内の可視化に使われている緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見により、3人の研究者に化学賞が授与されている。だが、最初にGFPのクローニングに成功したダグラス・プラッシャーはこの中に含まれていない。

研究者が自身の名前が削られたことに抗議した事例もある。2003年、レイ・ダマディアンは核磁気共鳴画像法(MRI)の発明によるノーベル賞から自身が除外されたことは誤りであるとして、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ロサンゼルス・タイムズに抗議の全面広告を掲載した。ノーベル委員会はポール・ラウターバーとピーター・マンスフィールドのみをこの偉業についての賞に値すると認めていた。ダマディアンは自身が外されたことを「正さなければならない恥ずべき誤り」であると主張した。「月曜日の朝に目覚めて、自分が歴史から除去されていたことを確認することは受け入れられない苦痛です」と彼はニューヨーク・タイムズに述べている。

誰が賞を受けるべきで、誰が受けるべきではないのかという以上の問題はノーベル賞が個人に与えられることだ。科学の1部門につき最大3人までということになっている。イバン・オランスキーとアダム・マーカスが「Stat」に書いているように、現代の科学は「チームスポーツの中でも最もチームスポーツらしいもの」である。研究者は単独で大発見をすることもあるが、それは時間と共に更に稀なケースになっている。小さな研究グループであっても、ポスドク、学生、技術者が数名は含まれていることが通常であり、彼らは単独の研究者の名前が記された発見に関与している。そして、多くの場合は1つの研究プロジェクトに数多くのグループが協力し合っている。前述のようにLIGOプロジェクトのチームが発見を発表した論文には3ページに渡って著者のリストが掲載されている。また、ヒッグス粒子の質量を正確に推定した最近の論文には5,154人の著者が名を連ねている

ノーベル賞を擁護する人々は、ノーベル委員会がアルフレッド・ノーベルの遺志、つまりこの賞の創立を伝える文書に拘束されていることを強調している。だが、彼の遺志では、それぞれの分野で「前の年に」際立った業績を上げた「個人」を選定することを求めている。だが、ノーベル委員会は既に数十年前の業績を対象に、最大3人の選定を認めている。既にオリジナルの規定を曲げている以上、更にもう一歩進まないのは何故なのか? Scientific Americanが提唱するように、科学部門の賞も平和賞のように組織や団体に授与することはできないのだろうか?

改革は難しいことではなく、放置しておけば代償は大きなものになる。2013年に生物学者のアルトゥーロ・カサデバルとフェリック・ファングが書いているように、ノーベルは孤独な天才の考えを広めた。この考えは哲学者のトーマス・カーライルによって纏められた「世界の歴史は偉大な人物の伝記に過ぎない」というものだ。科学に関しては必ずしも当てはまらないものだが、ノーベルはこの問題のある神話を養ってしまっている。カサデバルとファングによれば、このことで「科学界で勝者が全てを得るという欠陥のある報酬システムを強化し、少数の人に不適切に過度な注意が向くことによって多くの貢献者が無視されることになっている」という。ある意味でこの賞は最も重要な貢献をした人ではなく、危険の多い学界の迷宮を上手く生き延びた人に関係することになっている。

そして、この賞は多くの場合文字通り生き延びていることに関わっている。ノーベル賞は死後に受賞することができない。ロザリンド・フランクリンはジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスにノーベル賞が送られる4年前に亡くなっていたため、DNAの二重螺旋構造の発見について重要な役割を果たしたことが認められなかった。天文学者のヴェラ・ルービンは銀河系が回転する方法を研究することで暗黒物質(ダークマター)が存在する証拠を示した。これは今日の宇宙の理解に革命を齎した偉業だった。2016年の10月、科学記者のレイチェル・フェルトマンは「ヴェラ・ルービンはノーベル賞に値する」と述べ、そして「おそらく彼女は間に合わないだろう」と述べていた。結局ルービンはその2ヶ月後に亡くなった。

ルービンとフランクリンのケースはノーベル賞が抱えるもう一つの長年の問題を指し示している。ノーベル賞が広める孤独な天才像の殆どは白人の男性である。生理学・医学賞では214人の受賞者のうち女性は12人、化学賞では175人のうち4人、物理学賞では204人のうち2人である。最も最近物理学賞を受けた女性はマリア・ゲッパート=メイヤーで、54年も前のことだ。受賞候補者が不足しているというわけでもない。ルービンは間違いなく受賞に相応しかったし、オットー・ハーンと共に核分裂の発見に貢献したリーゼ・マイトナーも同様だ。1937年から1965年まで、マイトナーは異なる人々により推薦され続け48回ノミネートされているが受賞することはなかった。昨年、天体物理学者のケイティー・マックは「ノーベル賞は素晴らしいものですが、受賞者の人口統計は構造的な偏見を反映しむしろ増幅させたものであることを留意する必要があります」とTwitterに書いている。

ノーベル賞の影響力がここまで大きくなければ、こうしたことはたいした問題ではなかっただろう。この賞は賞金の金銭的価値を超えて受賞者には収益性の高い講演の依頼が保証されることになり、彼らの論文はより多く引用されることになる。実際、ノーベル賞の受賞者は、ノミネートされただけで結局受賞できなかった人よりも1年か2年長く生きる傾向がある。そして、この賞は受賞者の偉大さを永続的な影響力として刻み込むことになる。ノーベル賞は例えば「人並み外れた独創性」を示す人に授与される「マッカーサー・フェロー」とは異なり、特定の発見を認識するものだ。それでも発見者はそれ自体が知的能力として永遠に扱われる。1つの歴史的貢献とその後の彼らの思考が永遠に同等視されることになる。

このことは、既に何度もあったように受賞者が疑似科学や偏見の擁護者になった場合に問題になる。トランジスタを発明して1956年に物理学賞を受賞したウィリアム・ショックレーは、その後、優生学に傾倒しIQの低い人々(主にアフリカ系アメリカ人)を不妊化するべきだと主張した。前出の受賞者ジェームズ・ワトソンもアフリカ人は平均よりも知性が低いと主張した。ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)という、今日どこの研究所でも使われているDNAを複製する技術を発明し1993年に化学賞を受賞したキャリー・マリスは、その後、占星術の支持者になり、HIVとAIDSの関係を否定し、人間による気候変動を否定する発言もしている。また、彼は自伝の中で、輝くアライグマに出会ったことを書いていて、それはもしかするとエイリアンだったかもしれないと書いている。

公平に言えば、特定の年に何人の科学者が受賞するべきかという問題とは異なり、受賞者がその後に常軌を逸してしまうのはノーベル委員会が解決できる問題ではない。むしろ問題はノーベル賞を科学的価値として神格化してしまう私たちの傾向にある。そうではなく、ノーベル賞は他の全ての賞と同様に欠陥があり、主観的なものだ。それを周囲が具象化してしまうことによって受賞者の自尊心を過剰にしていまい、受賞できなかった人を傷つけることになっている。「最終的にノーベル賞の権威を引き下ろせるかどうかは私たち次第です」と、科学記者のマシュー・フランシスが昨年書いている。ノーベル賞は私たちの科学に対する認識を支配していて、私たちの同意によって賞が存在しています。ですが、その同意は既に成り立たなくなっているのです」

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