2019年4月28日日曜日

合理的思考に関する神話


私たちの合理的なはずの行いが非合理の爆発を引き起こしている


Vox
Sean Illing
Apr 25, 2019

人間というのは特別に非合理的な生き物なのだろうか?仮にそうだとするとその反対の仮説に基づいて形成されている私たちの社会はどういう結末を迎えることになるのだろう?

こうした問いをパリ大学の哲学者ジャスティン・E・H・スミスが新著「Irrationality: A History of Dark Side of Reason(非合理性:理性の裏側の歴史)」で投げかけている。彼は西洋史の中で何世紀にも渡って語られてきた物語に一石を投じようとしている。私たちはかつては神話と迷信に目を眩まされていたが、古代ギリシャ人たちが理性を発見して以来、合理的な啓蒙思想が人生にとって最も価値のあるものとされてきた。

スミスは、これは素晴らしいことだが間違った話なのだと主張している。人間というのは合理的とは程遠いもので、実際には非合理性の方が人間の生き方と歴史には大きな影響を与えてきたという。そしてこれは単に学術的な観点からだけのことではない。「人々と社会を合理的にするために合理性を課すという欲求は、非合理の劇的な噴出に突然変異するのである」と彼は書いている。

スミスが正しいのなら私たちは不安定な立ち位置に残されていることになる。社会に秩序を求めることができないというのなら、私たちはどうすればよいのだろう?私たちはできる限り合理的になろうと努力するべきではないのだろうか?人生に於ける理性の役割について考え直す必要があるのだろうか?

スミスにこれらの疑問や他のことについても話を聞いた。

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ショーン・イリング:この本は主題を要約するのが難しいですね。特徴を説明して頂けますか?

ジャスティン・E・H・スミス:20世紀の哲学者、テオドール・アドルノマックス・ホルクハイマーが啓蒙主義的世界というのは神話に堕落して、理性を非理性に陥れる傾向を生来持っているのだと主張したことは基本的に正しいということが主題になっています。理性が非理性に向かうこの傾向というのは非理性を抑えて排除しようとする過度な努力によって悪化するのです。私はこのことは、個人の理性もしくは「心理学的」な側面と、社会全体のレベルと両方の意味で正しいと考えています。


例を挙げて頂ければわかりやすくなると思いますが、最初に少し確認させてください。私たちはアリストテレスの時代から、人間というのは理性という能力によって他の動物とは区別されているのだという考えを持っています。これは誤った認識なのでしょうか?私たちは人間を特別に理性的な生き物であると考えるべきではないのでしょうか?

それが伝統的な考え方ですね。しかし、それに反する伝統というものもあるのです。つまり、人間は特別に非合理な動物だというものです。この見方だと動物は思慮や躊躇に陥らないという意味で合理的な存在ですが、常にその種の生物として完全に適した行動を選択して実行するだけです。一方で私たち人間は疑念と不安によって痺れてしまっているというのです。

私はこの考え方に共感を覚えますが、飛躍しすぎているとも思います。私たちは明らかに、充分な長い時間繁殖して生き残るのに足る正しい行動を選択してきました。私たちは成功した種ですが、例外的なものではありません。私が言えるのは、例外的に理性というものに恵まれたことがこの意味での成功の原因ではないということです。


それは合理性というものを考える1つの確かな方法ですね。その基準で考えると、人間はあまりにも多くの意識に捉われていて、思考への執着が問題を解決するよりも問題を作り出すことになっているということでしょうか。

おそらくそうでしょう。ですが、私たちはただ思考に執着しているから考えるわけではありません。おそらく、私たち人間と人間の祖先や人間になる前の祖先は、何かを可能にする方法や事態を悪化させる可能性について考え始める前から、長い間思考をしていたはずです。


それでは、事態が悪化する場合を考えてみます。あなたは「人々と社会を合理的にするために合理性を課すという欲求は、非合理の劇的な噴出に突然変異するのである」と書いています。この意味するところについて例を挙げて頂けますか。

この本で基本的な神話の1つとして挙げた最も明確な例は、紀元前5世紀のピタゴラス教団についてです。彼らは数学の完璧な合理性に忠実である余り、非合理な数字である無理数の存在が発見されたことの対処に苦労していました。彼らのうちの1人、メタポンティオンのヒッパソスは教団の外部に向かって世界は数学だけでは説明しきれないのだと話し始め、伝説によればそれに怒った教団のリーダーが彼を水に沈めて殺したと伝えられています。

18世紀フランスの劇作家で活動家のオランプ・ド・グージュが別な例として挙げられます。彼女は理性の精神に則って、1789年フランス革命時の人権宣言に有名な批判を行います。人権宣言は女性にも適用されるべきだと主張したのです。その結果、ジャコバン派は彼女の頭を切り落としました。彼女の完璧な合理性に対する反応は究極に残忍な非合理だったのです。

この1789年以来、革命に於いては数えきれないほど似たようなことが起こっています。特にマルクス主義者に顕著です。彼らは少なくとも名目上は社会を合理的に再構築することに尽力しています。マルクス主義者の中には処刑をなんとも思っていない人がいて、彼らは処刑を正しいことだと考えていてその時代のオランプ・ド・グージュのような人が処刑されることはないと考えているのです。


人間が非合理である理由は十分明確だと思いますが、この合理性への過度の熱狂はどこからくるものなのでしょうか?そもそもなぜ私たちは世界や社会に秩序を課すことを求めるのでしょう?

少し話が進み過ぎたかもしれません。近代に於いて合理性は大きな地位を占める科学と技術の分野で第一の価値を持つものになりました。正しい推論をして正しい方法に従うことで科学は輝かしい成果をあげ、高速で強力な機械を作り出しました。

ですが、その後、社会全体が1つの大きな機械で、人間はその社会という巨大な機械の中に含まれる小さな下請け機械であり、この2種類の機械は、私たちが蒸気機関や電信などを管理したのと同じ方法で完璧に管理可能であるという考えが広く受け入れられたのです。

しかし、これは人間の生活の中のごく狭い領域である機械工学から導き出された考え方で、心理学的にも政治学的にも誤っています。実際の機械工学では、私たちはそれがどう機能のするのか、問題をどう解決すればよいのかよく理解しているものです。


私たちには何が残されているのでしょう。理性には明らかに限界があり、最悪の事態を避けるためだけでいっぱいです。同時に、私たちはより知的で賢明で思いやりのある世界を求めています。しかし同時に、私たちは社会的及び政治的システムを人間としての現実的な形に合わせて築かなければなりません。

私はここでなんの解決策も提示することはできません。慎重さ、実用主義、個々の事情に即した正義に関する考察、こうしたものが全て必要になるのだと思います。私は政治理論家ではありませんし、政策立案者でもありません。私はこのどちらのふりもすることなく、この本を書き終えることがなんとかできたと思っています。

一応申し上げるなら、私はある程度再分配することが正義だと信じています。ベゾスやザッカーバーグのような人たちの富の大半を取り上げて、大手テクノロジー企業を公共企業にすることも含めてです。これを適切な法律と幅広い国民の支持の下で、必然的なものとして誰にとっても痛みのない形で実現するべきと考えています(現在の億万長者たちは富の大半を取り上げたとしても億万長者に変わりはないでしょう)。

人間の状態を合理的に改善するための方法論の大きな間違いは、物事の新しい秩序が成り立つためにはいくつかの偉大な出来事が必要で、合理性を機能させるためには非合理性によって焚き付けられる必要があるという考えが広まってしまったことです。簡単に言えばこれがレーニン主義です。ですが、仮に社会が合理的に組織化されようとしているなら、その実現はごく退屈なものになるはずです。


あなたが進歩について全体像としてどのように考えているのか興味があります。あなたの本を読んで、私はスティーブン・ピンカーの話について考えていました。彼の主張は、人類の歴史には浮き沈みはあるが、結局は理性と進歩の着実な行進であるというものです。この主張に何か問題はあるでしょうか?

全体的な人間の生活の改善についてはいくつかの信頼できるデータがあります。過去数年間のインドを見れば、配管設備を利用できるようになった人の数が劇的に伸びていて、それに応じて病気になる人も大幅に減少しています。これはナレンドラ・モディの実績の1つです。中国が、モディ、エルドアン、ボルソナーロ、そしてトランプなど、後を追いたがる人たちを出し抜いて確立させた権威主義的資本主義の新時代は少なくともある程度恵まれた集団にとっては生活基準を向上させる可能性が高いものです。

しかしこれが全体の改善に繋がるのかどうかはわかりません。1つには、今私が挙げた政権のやり方では改善が実行されるには誰かが対価を支払わなければならないからです。更に、現在専門家が真剣に考えている大惨事のシナリオが近い将来起きることがあれば全てが無駄になってしまうでしょう。


ピンカーが言う人間の生活の質が如何に向上してきたかということはよくわかります。それでも文明はそれ自身の破壊を抑えることができないということに私は注目しています。私たちは自分たちの環境を破壊することを前提とした文明を築いてきましたが、短期的な利益に目を眩まされていてこの方向性を変えることができないのです。私にはこれは進歩のようには感じられません。

ピンカー自身がその質問に対する答えを持っていると信じていますが、正直に言って私自身は彼の物事の着実な改善についての主張について考える時、1つ問いたいのです。「では50年後にもう一度確認しましょう」ということです。アマゾン(川の方です)はまだありますか?核兵器は使われたでしょうか?

20世紀ヨーロッパに於ける啓蒙主義と永続する平和の達成のためには、2つの要素が必要だったことは明らかだったのではないでしょうか。1つは世界の他の地域に対する略奪であり、もう1つは第二次世界大戦が集結して以降、西ヨーロッパは2つの超大国に囲まれ、誰かが間違った行動を起こせば世界が破壊される準備ができていたということです。


啓蒙主義原理への拒絶としてナチズムや右翼ポピュリズムの世界的な復活が起こっていると考えていますか?

それは古典的な弁証法です。右派ポピュリストというのは主張や目的の大部分を啓蒙主義から派生した用語で構成しています。歪んではいますが、それでも同じ用語です。その明確な例が、極右思想を公的な談話の中心にねじ込むために「言論の自由」を持ち出すというものです。


啓蒙主義原理の上に合理的でテクノクラート的な世界が構築されれば常に反動的な危機を迎えるということでしょうか?ポピュリスト運動というのは何を拒絶しているのでしょう?

私は危機の段階が上がらないように管理できるかどうかの問題だと考えています。強圧的に抑制することなく、育成することもないように管理する必要があります。ここ数年で見えてきたように、それは微妙なバランスです。

私は子供の頃スコーキー(イリノイ州)でナチスのパレードが許可されていたのは良いことだと考えていました。それが封じ込めるのに効果的だと信じていたからです。私はそうしたパレードが真の脅威になることは決してないと当然のように考えていましたが、今ではもうそうは考えられません。パレードはオンラインに移行し、しかしそのわずかな違いによって数十年前よりもずっと大きなものになっています。


少し変な質問をさせてください。人生に於ける非合理の有益さとは何でしょう?非合理の本能は私たちにどう役立っているのでしょうか?

私は多くの良いことを「非合理」の名の下に置きたいと思います。夢だけでなく、飲んで酔っ払うこと、芸術的創造性、キャンプファイヤを囲んでお話を聞くこと、音楽やダンスを楽しむこと、あらゆる種類のお祭り騒ぎ、コンサートやスポーツの試合のような大規模イベントなどです。こうしたものが人生を価値あるものにしているということには多くの人が同意してくれると思います。そして私はこうしたものの価値を純粋に実利主義的な言葉だけで説明するのは不可能だと思います。


その中には実利主義的に考えられるものもありそうですが、仰ることはよくわかります。おそらく、大事なことは社会は合理的なものと非合理的なものの選択ではなく、その2つの緊張関係をうまく管理していくことが課題だということでしょうか。

そのとおりですね。抑圧するのではなく管理すること、あるいは逆のアプローチとして緩めることです。例え話になりますが、依存症を研究している科学者たちは摂食障害の人の中には薬物依存と生化学的に殆ど区別がつかない人がいると言っています。ヘロインをやめろと忠告することはできますが、食べ物に依存している人には何を言えば良いでしょうか?この意味では非合理性というのは違法薬物というよりは食品に似ています。排除することはできませんが、明らかに過剰に摂取すれば問題であり支援が必要になるのです。


私たちが自身の愚かさを封じることができないとして、人間の生活における理性の役割についてどう考えたら良いでしょう?

理性の価値というのは、人によって誇張されたり軽視されたりしていると思います。そして、自分の意見を押し通すために非常に不誠実に使われることもあります。これはニーチェが合理主義哲学の歴史についてのこととしてよく理解していたことです。そして、私たちが、Twitterで「リプライ・ガイズ」ともいうべき人たちが毎日数えきれないくらい表現するのを見ているものです。いつでも「でも、実際は…」という感じで誰かの話に何でも参加する準備ができている人で、特に相手が女性や、注意を引きやすく見える人だと絡んでいくような人たちです。

彼らの言っていることは正しくて合理的なのかもしれませんが、彼らが言う理性というのは明らかに自己賛美、安っぽい野心などに基づいたものです。ある面から見ると哲学の歴史というのは、自分の本質の投影を覆い隠すことが得意な「リプライ・ガイズ」の歴史です。私は必ずしも常にそう考えているわけではありませんが、誰かがあまりにも熱心に理性の力の重要性を賛美しているのを聞いたときはいつもそう考えてしまいます。

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