2019年2月6日水曜日

私たちはなぜこうも数字に騙されるのか


殆どの場合、政治家やメディアが引用する統計は科学的な事実を表してはいない


The Conversation
Shabnam Mousavi
February 5, 2019

1980年代のコメディ番組「イエス・プライム・ミニスター」のエピソードに次のようなものがある。新首相が初のテレビ演説のリハーサル中に「数字について言及しても構わないか?」と尋ねる。それに答えてTVディレクターは「構いません。実際には誰も数字を聞いてはいませんし信じない人もいますが、数字に言及すると人々はあなたが事実を掴んでいると考えます」

この番組で使われた他の多くの風刺と同じく、この言辞も今日の真実を言い当てている。もし、一枚の絵が千の言葉に値するというなら、数字は少なくとも二千には値するだろう。数字は説明の必要性を省き、正確さ、知識、真実を示してくれる。結局数字は嘘をつかないのだ。いや、そうでもないかもしれない。

公式の数字は特定の目的を果たすために作られる。ついている名前は単なるラベルであり、根底にある安定していて確実な特性とは関係がない。殆どの場合、政治家やメディアが引用する統計は科学的な事実を表してはいない。

例えば、国の予算の問題を考えて欲しい。様々な福祉給付金が英国の支出のおよそ3分の1を占めている。通常、これらの支出は実際の購買力を維持するためにインフレ率に合わせて毎年増加する。しかし、2016年4月以降この増加は給付金額の凍結によって廃止されている。つまり、政府は給付金の支払いをインフレに合わせて増加することをやめ、一定に保つことにした。これは政府による緊縮政策の1つで、激しい反対運動が起こった。

興味深いことに、米国でもこうした福祉給付金の支払いを凍結しているが、もっと微妙なやり方をしているため、英国ほど反対する人の興味を引いていない。これは、インフレ率を低く見せることを目的にインフレ率の計算方法を変えたことによる。この例は統計の融通性を表している。


インフレ率の例


では、インフレ率は伝統的にどのように計算されてきたのだろう?最初に政府は都会に住む典型的な4人家族が1年間に消費するもの(バスケット)の価格の変化(消費者物価指数【CPI】という)を記録する。物の価格が年々上昇すれば、バスケットの値段も上昇する。例えば、バスケットが100ドルから104ドルになれば、インフレ率は4%ということになる。

インフレ率はバスケットの内容を同じに保って計算されている。だが、経済学者の中には、人々は物価が変われば同じ商品を消費しないと主張する人もいる。つまり、高価になったものはより安価なものに置き換えられるはずだというのである。それで、実際の消費者行動を反映するという名目で、米国政府の経済学者は、例えば消費バスケットの中の高価なオレンジを安価なリンゴに置き換えることを提案した。これによってより小さなインフレ率が計算された。つまり、バスケットの定義を変えることによって、当時のバラク・オバマ大統領は2014年に政府の支出を大幅に削減した。その結果、給付金が減り、購買力も低下することになった。

インフレ率は2種類だけ存在するのではない。特定の目的に合わせた結果を出すために様々な方法で計算されている。例えば、高齢者は医療費が多くかかるために通常消費の価格が大きく、一般の人々よりも高い割合で給付金を増加させるべきだという議論がある。

同じ相関性は他の一般的なランキングやスコアにも当てはめることができる。従業員の評価、学校の成績、映画やレストランの顧客満足度等が考えられる。これらは実際に殆どの人々の生活に現実の影響を与える数字だ。こうした数字のリストはデジタル化が進んだことにより、より速く簡単に作ることができるようになったことで着実に数を増やしている。


歴史的な見方


数字の観点から事実や価値を考えることへの人類の興味は比較的新しい執着だ。経済学の進歩を考えてみると、1700年代に経済学の父アダム・スミスは社会における道徳と経済の秩序について記している。これは全体論的な視点を持った経済学だった。

しかし直ぐに、経済学を科学として認識しようと競い合うようになり、厳密な科学的手法に従うことが主張された。20世紀半ばの経済学の学生たちは経済学の歴史と、価値を計算する様々な方法について学んでいたが、今日の殆どの経済学の学生たちは経済の1つの形態だけを教えられている。

世間の趣向が変化している。焦点を合わせている場所が「品質を重視すること」から「数値化による検証可能性」に変化している。今日、信頼性を得るためには心ではなく論理が要求され、論理で処理されると考えられる傾向がある。こうして、数字は私たちの最も信頼できる基準になっている。

今日の私たちは全体論的な思考ではなく評価の得点を探すことが習慣になっている。私たちは、私たちが旅行に行きたい場所、私たちの子供を預ける学校、私たちが食べるもの、その全てに何個の星が与えられているのか見たがっている。同時に、私たちは、私たちの財政上の信用度のスコア、私たちの試験の結果、私たちの職場での財政的価値、そして二酸化炭素の排出量の数字を心配している。

数字に要約された情報を受け取ることの便利さは、数量化に焦点を合わせた時に犠牲にされたものが存在しない恐怖を上回り始めている。例えば、試験結果に基づいて評価されるからという理由で、試験で好結果を出すための教育を学校に強要すれば教育の質は低下する。同様に、仕事上のパフォーマンススコアは、個人と職場全体の両方にとっての長期的な利益を犠牲にして、働く人たちに近視眼的な利益追求を促すことになった。一般的に、平均値のような単一の数字は私たちを機械と区別している微妙な違いを無視することになっている。


この先は?


毎日あらゆる種類の数字が、多くの政府機関、企業、銀行、学術機関、ビジネス機関、営利組織、非営利組織、学校、病院などで捻り出されている。これらの数字は私たちに検証可能な情報を簡潔な形式で提供することを目的にしている。これは現代の巨大な産業になっている。

これらの数字は、レポートの作成者たちの間に与えられる期間が共通であり、同じ方法で測定されている限りは直接比較が可能なものとして機能する。

数字は常に真実を表しているものとして見做されている。しかし、これは非現実的な期待だ。数字の有効性は、その数字が作り出された定義の構造の限界に限定されていて、常に特定の目的のために存在している。私たちはあらゆる数字を額面通り受け取らないようにした方が良いのかもしれない。

だから、次に数字に出くわした時にはそれが誰によってどのように計算されたかを考えるのが賢明だ。その数字はあなたの心からの最善の利益にはそぐわない可能性があるからだ。

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