2011年3月19日土曜日

東北地方太平洋沖地震

2011年3月11日14:46に東北地方太平沖地震が発生し、地震の揺れと津波により大きな被害が発生しました。私は仙台市内におりましたが、地震でものが壊れた、ライフラインが停止しただけの被害でした。その様子を少しだけお伝えします。
被害が比較的軽かったため、少々不謹慎な部分もあるかと思いますがご了承下さい。

3/11

地震後の様子。

ロックのない戸棚が開いて中の陶器やガラス器が壊れた。逆に、ちょっとしたものでもロックのあるものは開かず、壊れなかった。

元コンビニ(今は空き店舗)のガラスが割れていた。空き店舗や空き家はそうでないところよりも破損の確率が高い気がした。建物は人が使わないと死ぬということを実感。

地震の日のその夜。良く見えないけど、信号も街灯も消えていて全くの暗闇。

電気も、水道も、ガスも、当然インターネットも停止。18時には暗くなる。夕方まで使えていたソフトバンク回線のiPhoneも夜には使えなくなった。ガスボンベのコンロでご飯を何とか食べて余震に揺られつつロウソクを立ててとりあえずビールを飲む。この時点ではラジオも無く、ごく近くの海辺で津波による深刻な被害があったことを僕は断片的にしかわかっていなかった。むしろ、市内で火の手があがることを心配していた。周りはとても静かで落ち着いていた。

3/12

買い物をしに行く。
地震の翌日、ラジオを買いに3時間並ぶ。周りの人の表情にはかなり余裕があり、車の通行も多かった。ただ、後ろに並んだ若い奥様は家に怖くていられないので避難所にいったら場所が足りないと入れてもらえず、夫、子供と共に車で一夜を明かしたと話していた。首尾よくラジオを購入。その他、ウエットティッシュと水なしで手を消毒するアルコールのジェルを購入。歩いて帰る途中のブックオフの中はかなり混乱していた。

災害時用の自動販売機というのがあるというのは聞いたことがあったが、結局は電気が来ないと役にたたないのか。発電機をつないで自動販売機を動かしていた。行列ができていた。無料かどうかはわからない。



一部の道路には亀裂が入り、歩道と車道の間に隙間ができていた。この道路のこの隙間は今でも広がり続けている気がする。その後、県か市の担当者が調査に来ていて注意のコーンを置いていったが、今のところ工事はしていない。


写真の奥側が海の方向。普通はみられない黒い雲(煙)とその上に白いキノコ雲のようなものが見えた。

電気もガスもないし、ガスボンベも2本しかないし売ってない。ならば、ということでバーベキューセットで炭を熾して冷凍庫で解凍されていたサンマを焼く。コレが滅茶苦茶旨かった。災害を満喫。

この日、この時まで連絡が取れていなかった大崎市に住む家族とやっと連絡がとれた。iPhoneのソフトバンク回線は自宅周辺では停止したままだったが2、3キロ移動すれば繋がることがわかり、併せて、無料公衆電話も利用して東京方面と連絡をとりながら大崎市と連絡をつける方法を探して貰った。

大崎市に住む夫婦の携帯は二人ともauだったのだが、結局近所に住むdocomoユーザーの方にお願いして連絡をつけてもらうと、何故かとりあえず直ぐに連絡がついた。しかし、先方もau回線が不安定かつ電気が停止していて充電できないため中々連絡はとれないとのこと。

深夜ではないが直ぐ暗くなる。LEDの懐中電灯を何本も持っていたが置いて使う分にはロウソクに叶うものは無かった。周りが全部明るくなる上に暖かくなる。飲みながら本も読める。

ラジオが聞けるようになったことと、関東方面とのメールのやりとりやTwitterで情報提供してくれる方もいて、ようやく被害状況がわかってきた。

3/13

水が出ないのはどうしようもないので、給水所に水を貰いに並ぶ。




これがとんでもない行列で、朝8時半に並んで、帰ったのが午後3時前。実に6時間並んで20リットルの水をゲット。給水所の周辺には大量の乗用車が路上駐車。市内全体から水をもらいに集まってくる。この時はまだガソリン不足感がいまより薄かったのだと思う。僕はタンクをキャリアに乗せて歩いて行った。

時間がかかったのはポンプが手押しだったせいもある(その後改善された)のだが、ペットボトルを大量に持ってくる人が多く、ポンプから口の小さいペットボトルへ水を注ぐのが難しいことが行列拡大の一因になっていた。

給水所にテレビカメラが取材に来ていた。カメラマン、レポーターとスタッフが1人か2人、颯爽と入ってきて、給水している様子と行列の様子を撮影し、管理している方に話を聞いていたようだった。

これを古◯伊◯郎みたいな奴が深刻な顔をして報じるのか、そしてそれを「大変だねー」とか言って高見の見物をしてる奴が見てるのか、と想像し勝手に頭に血が上らせていたが、よくよく考えるとそういう想像を自分がするのは、自分が普段災害報道を見るときそういう不謹慎な気持ちで見ているからだと気づいて反省。でも撮られるのは嫌なのであっちを向いていた。

比較的近所にある沼に車でトイレで使う水を汲みに行った。この辺は体力勝負な部分もあるが、水を運ぶには車を使わざるを得ない以上ガソリンの問題もあって、いつまで断水が続くのか不安になる。

海側を見ると黒い煙が出ているように見える。

この日の夜に自宅周辺でもソフトバンク回線が使えるようになる。しかもかなり好調。

3/14

この日、再び給水所に行くが、前日程並ぶようなこともなく直ぐに順番が来た。

並んでいた前の親父が何故かボランティアの人に絡む。明日は何時からやっているのか?と質問し、ボランティアの方が、一応7時半ということになっているが、水の供給によるのでボランティアである自分にはわからない、と返答。「ボランティアだからわからないってことがあるか」「ボランティアだったらそのくらいわかってろ」とかなんとか言って親父が絡みだすが、順番が来たので去っていった。どうやって止めようかと考えていたので僕も助かった。とりあえずボランティアの青年と、なんだあいつは、って話をする。

ゴミ捨て場
公園に地震で出たゴミを捨てて良い、という話だったので、壊れた陶器やガラス器を段ボール2箱に詰めて置きに行く。被災地にもBMW。ゴミ置き場には大量のゴミが出ていて、凄いことになっていた。

この日の夜8時くらいに電気が通った。

3/16

この日の朝に、連絡が取れず心配していた石巻の知り合い一家が無事であることがわかり、とりあえず一安心。

そして、ビールが欲しくて酒屋に並んだ。
酒屋が開いて酒を売るのは久しぶり、2時間程度の行列だった。何を買うにも行列が必要。先頭で買って出てきたおじさんがカートに氷結のケースを二つ乗せて出てきた「制限はないらしい」と前にいたオヤジと色めき立つが、彼は「自転車できちゃったからあんまり持てねえ」、僕はあんまりお金を持ってない。

後ろにいた集団(と言っても実は全員初対面で名前も顔も知らない人同士)と段々話が盛り上がり、どこのスーパーには何があった、どこの八百屋は開いていたとの情報を得る。そろそろ飲まないとやってられない、私は料理酒を飲んだことがある、等々。

この日は物凄く寒く、風も強く、雪も降ってきていたが、とりあえず皆と楽しく話をして紛らわす。ある程度時間がたったところで、店員さんが出てきて最後方で列を切り、そこに立ってそれ以上並ばせないようにした。店員さんの「皆さん寒くて大変でしょう」という言葉に「この後、飲めるから大丈夫だ!」という最後方の親父の一言でみんな爆笑。「・・・みんなそうだろ?」と恥ずかしそうに言っていた。

その後、僕らより前に並んでいてビールを買って出てきたお爺さんがまだ行列している僕らの前を通るときに徐にプシュっと缶を開けて物凄く美味そうに飲み始めた。僕の後ろにいるおばさんが「美味しそう!」と言って拍手、行列の皆でなぜか拍手喝采。

因みに、銀河高原ビールの白を久しぶりに発見したので、こんな時だが買ってきた。個人的にこれは地ビールの中では最も好きなビール。セリスホワイトより美味い!

3/17

この日、水道局に電話したところ、水道復旧の目処はない、とのこと。弱り果てた結果、もう一つ水用のタンクが必要であるという結論に達して買いに行くが、既にお店が閉まっていた。しょうがないと思い車のガソリンを無駄使いにしないために別なスーパーに並ぶ。ところが並んでいるうちになんと「水が出た」との連絡が入る。

1時間弱並んで入ったスーパーの様子。

この時点で地震後にも入荷はあったそうで、野菜類は中々の充実度。ガスボンベも三本入りを一つ買うことができた。肉、魚はなし、納豆が欲しかったが売っていなかった。

水が出たが、最初は赤錆のような色の水が大量に出てきた、段々出していると透明になってくる。この錆色の水ももったいなくて、しばし風呂に貯めておいた。後で掃除して綺麗な水と交換。それにしても風呂には物凄い量の水が入る、ということを実感した。

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